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 サン=トノレ街からかの豪奢なオペラ座が姿を消したのは八一年の六月八日のことだった。それは十八世紀に入ってからオペラ座を襲った二度目の火災であり、いくつかの紙面によると不運にも十四人の人々が炎に包まれたそうである。サン=トノレ通りに面する正面がかろうじて残った以外、そのすべてが焼失してしまった劇場は、善良なるパリ市民たち、社交場を求めて日夜パリ中をさ迷いうろつく貴族たち、また劇場付きの役者や踊り子たちにとっても大きな打撃となるはずだったが、しかし事態は思わぬ展開を見せた。建築家ルノワール氏が国王に四ヶ月の建築期間を願い出たのである。彼はオペラ座が焼失する以前から劇場の建築を予定していたかのように、驚くほど緻密な、かつ完成された再建計画を国王に提案した。国王はルノワール氏の提示した四ヶ月という期間内で、新たな巨大建築物を造り上げることが本当に可能であるかどうか、彼自身も念入りに計算し、納得した上で、ルノワール氏の計画を承諾した。結果オペラ座は異例の速さで再建され、新たな劇場がサン=マルタン市門に居を構える運びとなったのだった。たったの四ヶ月で建築された新劇場におけるこけら落としの演目にはイタリア派の代表格とも呼べるピッチーニの新作『アデール・ド・ポンシュー』が選ばれた。が、チケットの売れ行きは著しくない。理由はいたって単純である。オペラ座の主な顧客とも呼ぶべき貴族、ブルジョワ連中の大半が、この木組みで建てられた新劇場の強度にあらぬ不安を抱き、方々で囁かれる噂を信じ込んだ末、情けない気後れをしたのだった。そこで国王は意外にもこんな気の利いた提案をした。「待望の王太子ルイ・ジョゼフの生誕を祝い、こけら落としは無料公演とする」
 こけら落し当日、新たな仮設劇場には数八千人ほどの市民たちが詰め掛けたが、席に腰を下ろす権利を勝ち取ることができたのは幸運な三千人のみだった。ピッチーニの新作オペラ公演後は劇場に押しかけた六千人の市民たちが平土間をうめつくし、かつてない昂揚と混乱に充ちた舞踏会がポルト・サン=マルタンの一夜を征服した。彼らの中には数十年前に行われた現国王、ルイ・オーギュストと王妃マリー・アントワネットの婚礼パレードを思い出す者も多かったに違いない。なにはともあれ、パリ社交界の花形たちは貴重な社交場をひとつ失わずに済んだのである。演舞場を占拠して行われる夜間の舞踏会は以前にも増す盛況ぶりを見せ、調子の良い貴族たちは再びオペラ座へと足を運び始めていた。
「このパイは……」仮面を着用した従僕姿の男はすぐ近くの卓上に積み重ねられたオレンジのパイをひとかけら素手で掴むと口の中にひょいと放り投げた。彼はえらく神妙な顔つきで顎を動かしながら、隣に佇む貴族男性に言葉を投げた。「不思議な味がしますね。洋梨か、あるいはレモンでしょうか。上品さのかけらもない、俗っぽい味つけだ」
「口に物を詰めながら喋るんじゃない、行儀作法の悪い男だな。わたしの品性まで疑われたらどうしてくれる」
「そうした場合に備えて仮面をつけているのではありませんか。しかもどうです、わたしも当世の流行に従って、このような泥臭い衣服を仕立てさせてみたのですが、なかなか様になっているとは思いませんか? あの仕立屋はわたしの希望通りの衣装を毎回驚くべき速さをもって仕上げてくれます。実に素晴らしい仕事ぶりですよ、ペレゴー男爵」
「おい、頼むからわたしの名を口にしてくれるな。黙っていれば色男にもかかわらず、きみはいったん口を開くと途端に相手をうんざりさせる」
 あらゆる仮面を見つけることができた。手の込んだ金細工が施された仮面を得意げに装着する女性もいれば、あくまで付属品としての域を出ない、小ぶり仮面で素顔を隠す者もいた。しかし今宵だけは身分や立場をかなぐり捨て、自由気ままに異性と手を取り合う、そんな目的を持ってやってきた者たちにとって、お互いが身につける衣服や宝石に一定以上の価値を見出すことはあまりにも愚かしい行為であった。楽士たち、劇場の警備員、二十名の王室親衛隊、グラスを乗せた盆を抱えて回る給仕たちなどは仮面をつけていなかったが、つまり仮面を装着している人間は少なくとも舞踏会の参加者なのである。目を凝らして周囲を見回せば、あえてみすぼらしい仮装に身を包んでいると思わしき貴族たちの姿を見つけることができるだろう。
 従僕姿の男は目立たない黒の仮面をつけたまま口元の端を上げた。「そんなことを言うと……」彼はパイによって油まみれと化した右手をペレゴー男爵と呼ばれた中年貴族の鼻先に突き付けた。「あなたの新調したての上着で手を拭いますよ」
「やめんか、こいつめ! 少しでもわたしの服に触れてみろ、手袋を叩きつけるだけでは済まさんぞ。あっちへ行け、失せろ」
「本気になって怒らないで下さい、まったく暑苦しい方だ。これだから軍人というのは嫌なんです。ちょっとした冗談にまですぐにかっとなって怒り出す」
 白い歯を見せて豪快に笑う不躾な従僕男に初老の男爵は泣く子も黙る一睨みをくれてやったが、大した効果はなかった。
 薄暗く狭い演舞場には右を見ても左を見ても人々が互いに肩を押し合い、押しのけて踊り狂うといった光景が広がっていた。知らず知らずのうちにこの空間の隅へと追いやられていた楽士たちは、年配指揮者の指示でいっせいに譜面をめくった。ルイ十四世が愛したと言われるシャコンヌがおわり、彼らは豊富な舞踊楽曲の中から、『舞踊記譜法』で知られるトワノ・アルボーのブランルを二曲ほど選び出した。オーボワから静かに開始される演奏は人々の間をくぐり抜け、劇場を包み込む四つの壁や丸天井を伝って、再び人々の耳へ滑り込んだ。クーラント、アレマンド、シャコンヌと続いていた演奏に退屈しきっていた者たちは、オーボワの独奏が十秒きっかり過ぎたところでリュートやハープ、チェロ、ヴァイオリンといった楽器たちが急テンポで加わったのを聴くと、まさに両手を叩かんばかりに歓迎した。彼らは優美で上品なワルツ以上に、より大衆的と言える輪踊りをもっぱら好んで踊りたがった。
 大概の舞踏会は夜中の十一時を廻ったころから始まり、それから朝方の六時過ぎまでは派手なお祭り騒ぎが続く。疲れ知らずの男女たちはそれぞれ新たな相手を探し出すと再び演舞場の中央を占拠し、狂ったように喚いたり、歓声を上げたりしながらも軽やかに床板を踏み鳴らしはじめた。輪になって踊る人々の中には、当然ジャン=マルクやマノンの姿も見受けられるはずだったが、もはや彼らはすっかりこの人込みと同化してしまっていた。しかしいくら大勢の人間が密集しているとはいえ、中には異様な存在感を示す者もいる。ペレゴー男爵と例の従僕男はほぼ同時に輪踊りの中心部で飛び跳ねる二人組の男女に目を奪われた。その二人組は群を抜いて見栄えがすぐれているわけではなかったが、軽快ながらも滑らかな足の運び、指先の一本一本にまで洗練さが行き届いた優雅な動きは演舞場の周囲で骨休めをしている人々の視線を否応なしに惹きつける力があった。相手の男性はといえば一見場違いとも感じられる小作人風のみじめったらしい衣装を着込んでいたが、それらの衣服は絹で仕立てられており、貧相なデザインと上等な布地とはどこか調和に欠けているように思われた。さて女性のほうはと言えば他の女たちとは一線を画する技術を見せつけており、彼女が素人技とは思えない見事なグランフェッテを披露してみせると大勢の洗練された見物人たちはどっと歓声に沸いた。
「いい女だ」ペレゴー男爵はジュポンの上まで捲くり上げられた女性のポーランド風ドレスから覗く素足に熱っぽい視線を送りながら、感慨深くぼやいた。壁に寄り掛かる長身の従僕はといえば、「目立ちすぎですよ、彼らは」と不快そうに眉をしかめて見せた。
「いったいどうしたと言うのかね、今夜のきみときたら、いやに不満が多いじゃないか。なにか気に食わない出来事でも?」
「あったとしても、その出来事をあなたにお話しする義理はありません」
「口の減らない男だな」
 二曲のブランルが終わりを告げると周囲の椅子に腰を下ろすなどして例の男女の踊りを見物していた者たちも含め、みなこの若き踊り子に対し惜しみのない拍手を送った。踊り手の男女は互いにお辞儀をし合ったのち、周囲の人々に対しても丁寧な一礼をして見せた。
「でしゃばりどもめ」
 従僕は洋梨のパイを無造作に掴み上げるとまたしても口の中へ押し込んだ。
「わたしは素晴らしい余興だったと思うがね。……ところで、きみも少しぐらい踊ってきたらどうだ。さっきからパイや砂糖菓子をつまみ食いしてばかりいるようだが、これではいったい何のために仮面舞踏会へ足を運んだのか、まったくわからんじゃないか。それともきみは不味いパイを食べるためだけにこの劇場に留まっているとでも?」
「まさしく」
「馬鹿をぬかせ」
「舞踏会の空気を愛しているからですよ、わたしはこの空気を楽しむためにやってきたのです。眠ることを知らない艶やかな世界にさらなる華を添えるべくめかしこんだご婦人方、ここぞとばかりに伊達男を演じ切らんとする男たち、そ知らぬ顔で紛れ込む掏り共……考えてもみて下さい、こんなにも狂った馬鹿騒ぎがここパリでは毎晩のように行われているだなんて、信じられますか? ふざけた享楽や悪徳が公然とまかり通る世の中をあなたはどう思われますか、ペレゴー男爵。わたし個人の意見としては、もはやフランスに未来はないと思いますね」
「つくづく大層な物言いだ」
 数分ほど一休みしていた楽士たちがメヌエットの演奏を始めたとき、大層な物言いをする従僕はふいに目を細めた。砂糖菓子を舐めていた友人の顎の動きが急に止まったので、ペレゴー男爵は彼の視線の先にあるものを確かめるべくいぶかしげに周囲を見回した。出入り口付近の壁にもたれ掛かっている大柄な女性が従僕に対し、熱烈とも取れる視線を送っていた。ペレゴー男爵はじっと目を凝らした。その女性はローブの裾を両腰のあたりから垂らすルトゥルーセ・ダン・レ・ポッシュ風の紫色のドレスにゆったりとした黒い羽織を身に纏った品のある婦で、周囲の女たちに比べて頭一つ分もの差がある長身、露出の控えめにデザインされたドレスから覗く胸元は男心を刺激し、いかにも遊び慣れた様子で扇を口元にあてるなど、すべてが蠱惑的だった。ペレゴー男爵は彼女の視線を独り占めする従僕を妬ましく思った。彼はパイを一切れ口に含むと厭味ったらしく言った。
「お声をお掛けしてきたらどうだ、兄弟」
「御免こうむります」
 従僕に扮したオリヴィエは断固たる態度で答えた。ペレゴー男爵はしかめ面を浮かべ、従僕姿の友人と例の麗しき婦人とを交互に見遣った。「きみは女性に対して、もういくらか寛容な態度で接するべきだとわたしは思うぞ。せめて舞踏会に足を運ぶことを控えるくらいの配慮はしてもいいのではないかね」
「何をおっしゃいます、男爵」と、オリヴィエはまこと遺憾だとばかりに反論する。「わたしほどご婦人方を深く崇拝する者は、このフランス中を隅から隅まで探し回ってみたところで他にはおりますまい。ただ踊りに関しては多くの人々よりもいくらか不得手なもので、公の場でご婦人方の手を取ることは少しばかり躊躇われるのです。わたしが二度以上お手を拝借したことのある女性は、最愛なる妻とわが姉、マノン、そしてシャルロット嬢の四人だけですよ」
「崇拝? 崇拝だって? きみは大きな勘違いをしているようだ。事実、彼女たちはきみにとって最も崇高な精神であるらしい敬慕だとか、愛情だとか、そういった不毛な感情を求めているわけではあるまい。まずは落ち着いて、そして周囲の女たちを見渡してみたまえ。彼女たちの胸のうちに秘められた想いがもっと衝動的な情熱であることに気づかされるだろうよ」
「そうは言いましても、それとこれとは話が別でしょう。感情とは刺激によって引き起こされる極めて一時的、つまり我々の理性では到底押さえつけることのできぬもの。わたしが申しました崇拝とは人間の理性、道徳的価値に準ずる最も正当な、決して揺らぐことのない真理に基づく精神です。理性こそが真理の基準であると、過去の偉人たちは結論を出しています。衝動とは一時的な感情、つまり長続きしない。衝動の定義とは、いったんその欲求を達成してしまったならば、あとは収縮を残すのみという、至ってひとりよがりな感情と捉えたところで、間違いはないでしょう。感情に左右され理性を忘れたならば、彼らこそは幼児となんら変わりのない、欲求を抑える術を知らぬ愚か者となる。そして彼らの犠牲となる存在はもっぱら力の弱い者、女性たちが大半です。しばし彼女らが自ら進んで身を捧げてきたとしても、あとあと後悔の念にかられるのは我々男性ではなく、もっぱら彼女たち自身であることが多いように思われます。特にたぐい稀なる美貌を持った女性はなおのこと格好の餌食となりましょう。要するにわたしが主張せずにいられないことは一つ、衝動的な行動には後悔がつきものである、という事実なのです。そして以上の事実からは、もう一つの事実をも同時に導き出すことが可能です。ぺレゴー男爵、すなわち傲慢で堕落しきった男たちが世の中に溢れ返っていればいるほど純真な心を持つ女性たちの多くが、わたしのように誠実な心を持った男の元へ逃げてくるというわけで……」
「少々質問させてもらってもいいかね」
「なんです?」
「前々から疑問に思っていたのだが、きみはなんだっていつも小難しい議論に話を持ち込みたがるのだ?」
「ちょっと待って下さい、これのどこが小難しい議論だと言うのです? わたしはただ――」
 彼がむきになって言い返しているあいだにもかの婦人はオリヴィエの足先から頭のてっぺんまで、品定めするかのように眺めていた。オリヴィエは体中にまとわりつく彼女の欝陶しい視線が気に食わず、いっそバルコニーにでも逃げ出してしまおうかとすら思い始めたが、しかし先に行動を起こしたのは婦人のほうだった。彼女が寄り掛かっていた壁から背を離したとき、オリヴィエは仮面の下にほっとした表情を浮かべた。が、それもつかの間、派手な孔雀の仮面を装着した女性の歩みが自分たちのほうへ向けられていることに気づいたオリヴィエは隣でパイを頬張っている年配の友人に無言の助けを求めたが、あえなく突き放された。ペレゴー男爵は素知らぬ振りで彼らの成り行きを見守る姿勢に入った。オリヴィエが仮面を深く被り直すと同時に、婦人が彼らの目の前にやってきた。仮面の下の表情こそ窺い知れなかったが、彼女の発する異様な威圧感をしてオリヴィエの額にえも言われぬ冷や汗を生じさせていた。ペレゴー男爵は自分と同じ高さの目線を持つ婦人の蠱惑的な唇に見とれていたが、彼女が口元にあてていた扇をぴしゃりと閉じたのち「女心のわからない方ね」と苛々した様子で呟いたものだから、思わずぎょっとした。仮面の奥に潜む婦人の瞳が優柔不断なオリヴィエを高圧的に見上げた。当然ながら、彼は怯んだ。
「あなた、ねえ、一曲踊って下さるだけでいいのよ! どうしてお声を掛けて下さらないの」
 婦人は唖然と立ち尽くすオリヴィエの腕を掴み、甲高い声で叫んだかと思えば、有無を言わさぬ力強さで彼をその場から強引に連れ去ってしまった。あとに残されたペレゴー男爵は狐につままれたような気分で洋梨のパイをそっと口に含んだ。
「いちど輪の中に引きずり込まれると、なかなか外へ出てくることが困難だったよ」
 いたって地味な仮面をつけたジャン=マルクが演舞場を覆いつくす男女の輪の中から、額に汗をにじませ抜け出てきた。人込みの中でもみくちゃにされたらしく、彼の白い鬘は使い古された箒のごとき有様となっていた。
「ご苦労なことだ」
 ペレゴー男爵は気のない言葉を返した。ジャン=マルクは心行くまで踊ったという満足感に満ちた表情で友人の肩を叩いた。「たまにはこういうのも悪くないね、何歳も若返った気分だ!」
「それじゃオリヴィエのやつも、いくらか若返って戻ってくるのだろうな」
「オリヴィエ? オリヴィエがどうしたって?」
「いましがた凄みのあるご婦人に腕を引かれて、一曲踊りに行ったところさ。豪勢で艶っぽい女性だったが、あの分では仮面の下に隠れた素顔も極上に違いない。あまりの衝撃に、わたしとて動揺を隠せなかったほどだ」
「珍しいこともあるものですね、オリヴィエが自らご婦人に声をお掛けするなんて、なにか心境の変化でもあったのだろうか」
「いやまあ、たしかにそうなんだが……」
「豪勢で艶っぽい女性ですって?」
 どこからともなく投げ掛けられた言葉は、彼らの同行者であるマノン・デプレットのものだった。ペレゴー男爵とジャン=マルクは贅沢なローブ・ア・ラ・フランセーズに身を包んだ女友達が愉快そう歩いてくるのに気づいた。
「あらペレゴー男爵、まさかあなた、黒い羽織ものを肩に掛けていた方のことをおっしゃっているのかしら?」
「そうとも」
「彼があなたの褒め言葉を聞いたらさぞ喜ぶでしょうよ」


「どちらへ行かれるのです?」
 オリヴィエは婦人の背に向かって困惑げに問い掛けた。しかし婦人は無言のまま、ひたすら人混みを掻き分けて進んでいった。彼女は歩幅の広い歩みを三十ほど進めるごとに、オリヴィエの方へちらりと視線を投げた。従僕姿のオリヴィエはその都度、愛想笑いを浮かべて見せるのだった。
 彼がやっと婦人の腕から解放されるに至ったのは、まったく予想外の場所においてだった。二人はブールヴァールに面した二階、屋外のバルコニーに足を踏み入れた。演舞場から大広間、ゆるやかな階段を伝って漏れ聴こえてくる荘重たるパヴァーヌはオリヴィエを夜の陶酔に浸らせるに足る十分な効力を持っていた。「奥さん、あなたはまた随分と……」彼は階下から響いてくるオーケストラの演奏にうっとりと耳を傾けながらも、今度こそ自分のほうをきちんと振り向いた婦人に向かって楽しげに笑いかけた。「随分と強引な真似をなさる。わたしがもしも一介の従僕などではなく礼儀作法に小煩い宮廷人だったならば、彼は奥さんに向かって厭味の一つでも言って見せたかもしれませんよ」
 婦人は紳士的な従僕の言葉を聞き、不満げな態度を顕わにした。「愛しい方、よもやわたくしがあなたの正体を存じ上げずに、このような暴挙をしでかしたとお思いではないでしょうね……」こう言ってのけるや否や、彼女は大胆にして驚くべき素早さをもってオリヴィエを手摺りに押しつけた。かと思えば、あっという間もなく彼の唇を奪ってしまった。両腕で首根っこを拘束されてしまったがために、オリヴィエは身動きが取れなかった。情熱的な婦人は黒の羽織ものが肩からずり落ちるのも厭わず、彼の唇を幾度となく愛撫した。女性を力任せに突き放してしまうことは非常に躊躇われたので、オリヴィエはどこか呆然とした面持ちで見覚えのない婦人からの熱烈な口づけを受けるに徹した。彼は典型的なフェミニストであったが、ジャン=マルクらと違い女性の扱いは未熟、不得意だった。きっと人違いだ、それ以外には考えられない、と彼は内心思っていたが、この思惑は予想外の形で裏切られる結果となる。ひとしきり互いの唾液を交換し合ったのち、婦人は満足げな吐息と共にオリヴィエを解放してやった。が、彼の唖然とした表情を確認するや苦笑混じりに呟いた。
「まいったな」
驚くべきことに、青年の声であった。「まだお気づきになりませんか、サマルス男爵」
 無意識のうちに口を開いていたオリヴィエは、男か女かもわからない気味の悪い人物に自分の名を呼ばれたものだから、すかさずその唇をきつく閉じた。彼の心には警戒心が芽生えていた。青年は微かに息を切らしながらも、呆れ果てたような口ぶりで言った。「エマニュエルは気づいていたというのに、あなたときたら感づいてさえもくれない」
 仮面の下から青年の凛々しい顔が現れると、オリヴィエは尚いっそうの驚嘆に、目を白黒させながら声を上げた。「ガエル、きみだったのか!」
「こんな気違いじみた格好で外出する男を、もしやおれ以外にもご存知でしたか?」
「許してくれ、わたしはてっきり本物のご婦人なのだとばかり思っていた」
オリヴィエは仮面を外した。煩わしい口ひげをきれいさっぱり剃り落とした彼の素顔は実際の年齢より一回りも二回りも若々しく、青年と呼んでも十分通用するほどだった。
「ご冗談でしょう」
「本当だとも、現にペレゴー男爵などはきみに熱い眼差しを向けていたじゃないか」
 彼は友人ガエル・マランジュの腰を衝動的に抱き寄せると親愛以上の情を込めた口づけを両頬に送った。マランジュは擽ったそうに笑いながらも、どこか冷静な口調で尋ねた。「あなたの話題によく出てくる、あのペレゴー男爵ですか? 先ほどあなたの隣に立っていた紳士が?」
「ああ、仮面の下にこそ凶悪犯のような面が潜んでいるが、根は悪くない男だよ」と、オリヴィエは頷きながら今度は青年の唇に軽く口づけた。「ところでわたしをこんな場所まで連れ出してきたのには、それなりの理由があるのだろうね。きみのことだ、どうせわたしに頼みたいことの一つや二つあって、わざわざ舞踏会の最中に声を掛けてきたのだろうと勝手に推測させてもらっているが、この予想は当たっているかな?」
 マランジュの神話的で凛々しい顔立ちは男女を問わず魅了してやまなかったが、この均整のとれた見目の魅力はガニュメデスやアンティノオスなどが持っていたであろう少年的な初々しさではなく、むしろヘパイステオンやフィレンツェのダビデ像に見られるような、戦士的でしなやかな力強さにあるように思われた。物心ついた頃から自分自身が持って生まれた武器を完全に理解していたマランジュはその長所を最大限にいかすべく役者となった。もっとも彼は時に演出や台本、舞台装置を手掛けることもあったし、演技の面では悲劇から喜劇、果てはオペラまで幅広くこなして見せる大衆的な芸人だった。
「いやな方だ、しばらくぶりにお会いしたのですから、もう少しぐらい再会の余韻に浸っても罰は当たらないはずでしょう」
「まったくもってその通りだが、あいにく今夜はこれから友人の屋敷で晩餐会が行われることになっているのだ。もうすぐ馬車が迎えにくる。急ぎの用でなければ、明日にでも我が家へ遊びにきてくれないか? そうすればゆっくり話を聞けるよ」オリヴィエは夜にも関わらずいやに人通りの多いブールヴァールを興味深そうに見下ろしながら言った。「お茶などを飲みながらね」
「明日でも構わないのですが、サマルス男爵、実は頼みというのが……」マランジュはいったん言葉を切った。バルコニーへ続く石の階段を上ってくる足音、続いて男女の喋り声が聞こえてきた。彼は腕に持っていた孔雀の仮面をかぶりなおすと小声で会話を再開させた。「おれをデュクレー氏にご紹介いただけないものかと思い、嫌がるあなたの腕をこうやって無理やり引っ張ってきてしまったというわけなんです」
「ジャンを?」途端に怪訝そうな表情で聞き返した。「もちろん紹介することは可能だが、どうしてまた突然? 理由が気になるよ、ガエル。わたしやジョルダン夫人、ロメール伯爵では力になれないのか?」
「いえ、ですがこればかりは、デュクレー氏にお願いするのが最善であろうと思いました。というのも友人の芝居小屋が三日ほど前から、不当な理由による強制的な立ち退きを迫られています。信頼すべき無二の友人たちからのご支援もあって、『ニコル』の公演は連日盛況だそうですが……ルーヴル広場の脇に芝居小屋をかまえるジャン=バティストを覚えておいでですか?」
「冗談だろう! なんだってまた彼らが立ち退きを? 経緯を聞かせてくれないか、わたしとしてもそれは聞き捨てならない事態だ」
「これまでのいきさつをすべてお話しするには、だいぶお時間を割いていただかなくてはなりません、サマルス男爵、状況は複雑を極めていますから」
 困ったように訴える青年にオリヴィエは一瞬考え込むような素振りを見せたが、「ならばいい、彼らにも事情があるのだろうからな」と、そっけなく答えた。「ともかくデュクレー氏のことであればわたしに任せてくれ。だがきみたちはあの男にどのような手助けを求めているんだ? そのあたりだけでも聞かせてくれないか?」
「デュクレー氏であればシャトレ裁判所の評定官、代行官の方々とも親しい間柄にあるはずだろうと、ジョルダン夫人から伺いました。ここだけの話ですが、恐いもの知らずのジャン=バティストは、場合によっては訴訟を起こすと息巻いています」
「訴訟だって!」
 オリヴィエは目を輝かせた。これが自分自身のことであったなら深刻な事態であるが、他人のこととなればもはや愉快な事態以外のなにものでもなかった。
「おいで」と、彼はマランジュの腕を引いた。その表情は心なしか生き生きとしているように思われた。「デュクレー氏は大広間にいる。実は今夜の晩餐会も彼の屋敷で行われることになっているから、きみの席も設けてくれるよう掛け合ってみよう。何と言っても、きみの親友の危機とあればわたしとしても見過ごせないからね」
 マランジュは思った、オリヴィエのごとき貴族連中がこれ以上増殖するのは、フランスにとって致命的な事態であろう。


 ジャン=マルクはマランジュを快く屋敷へ招いた。八つの女像郡が見下ろす正門を潜り、夜といえど息苦しくなるほどの熱気を纏わせる屋外に出た一行を待ち構えていたのは、一台の四輪馬車であった。いくらかのやり取りを経たのち、マノンとジャン=マルク、そしてペレゴー男爵の三人が四輪馬車に、オリヴィエとマランジュの二人はサン=マルタン市門から程近いペレゴー男爵の屋敷から呼び出した二輪馬車へと乗り込んだ。
 晩餐の食卓にはペレゴー男爵の希望によりアジア産の米を使った料理や、茹でたポテト、新鮮な貝類をトマトやワインで煮込んだギリシア料理、食卓の中央にはひときわ目を引く鴨料理、両脇には南国から船でやってきた色鮮やかなフルーツがそれぞれ美しい形に切り分けられ、左右対称に並べられていた。マランジュは最初のうちこそ緊張によって表情を強張らせていたが、次第にこの空気に対する慣れを見せ始めた。こ洒落た夜会服に着替えを済ませた青年が他の来客たちとすっかり打ち解けたことをいち早く察したオリヴィエは、晩餐が始まってから一時間ほどが経過したところでマランジュの例の相談ごとを切り出した。
具体的な助力を頼まれたジャン=マルクだけではなく、その場に居合わせた客人たちの誰しもが、いまだ顔すら知らぬ座長ジャン=バティストに対する同情の意を示した。出席者の中には、当然ながら先ほどの仮面舞踏会には足を運ばなかった者たちも数人おり、長方形の食卓を取り囲む十人の中の一人であったクレシー公爵などは特にジャン=バティストの境遇を哀れんだ。驚いたことにかの公爵は、金銭面の援助であれば惜しまない、とさえマランジュに申し出た。マランジュは客人たちの器の広さに多少の驚きを感じながらも、ほっとしたような表情でオリヴィエに感謝の目を向けるのだった。そしてエルロイ氏とブシェーズ伯爵夫人もクレシー公爵に続いて金銭面の援助を申し出たが、ペレック中尉とシャバイユ夫人、宝石商のドマ氏、加えてペレゴー男爵に関しては、気休めの言葉をいくらか述べるに留まった。マランジュの友人であるオリヴィエとマノンも彼らとは似たり寄ったり、完全なる傍観者を決め込んでいた。しかしながらシャバイユ夫人に関しては腕のいい代訴人を調達してくるという重要な役目を請け負ってくれたので、結局この晩餐を取りまとめるべき立場にあるはずのジャン=マルクの役目は何一つとして残らなかった。
「きみがぼんやりとしているうちに、我々がすっかり話しをまとめてしまった」
 膨れっ面をする主人の隣で、クレシー公爵が快活に笑った。
「しかしながら、勝算はあるのですかな?」虚ろな目でショコラを頬張っているオリヴィエを横目に、ペレゴー男爵が問い掛けた。「こう申すのもなんですが、わたしのような中流貴族が常日ごろ世話になっている者たちといえばもっぱらが公証人で、代行官だとかシャトレ裁判所だとかはこれまで関わり合いになる機会がめったになかったので、なにぶん勝手がわかりかねる」
「そうですね、わたしもその辺の事情は気になります」
 正面に腰を下ろしているエルロイ氏が同調したところで、客人たちは一斉にジャン=マルクへ視線を向けた。
 客人たちの注目を集めてしまった屋敷の主人は戸惑いがちに答えた。「どうでしょう、そうした類の疑問は弁護士に尋ねていただかなくては、わたしの口からは何とも断言できかねます。第一わたしが務める部署とシャトレ裁判所の接点は無きに等しいようなものですから」
 この訴訟問題に俄然乗り気のクレシー公爵は、なんとかして高等法院の評定官から前向きな見解を引き出したかった。
「かまわんさ、我々はきみ個人としての考えを知りたいのだ。仮にも法律家だろう、この件に関してきみはどう思う? 勝算はあると?」
「なんとも申し上げられませんな」
「少しは場の空気を察したまえ」
 扉の付近にたたずむ二人の給仕は、窓の外に眠たげな視線を送った。東の彼方が白み始めている。棒のようにじっと立ち尽くすことが主な仕事である彼らにとって、主人が気まぐれに行う晩餐会は厄介以外のなにものでもなかった。給仕たちが椅子と椅子のあいだを慌ただしく歩き回らねばならぬのも最初のうちだけで、客人たちがすっかりできあがってしまったころには、音も立てずひっそりと、客間の隅で睡魔と闘わねばならないのだった。彼らがようやく安眠を許されたのは、朝方の五時半を過ぎた時分だった。





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