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「それで、どうなさるおつもりかしら?」
 美しく澄んだ青色の夜会服に装いを凝らしたマノンは膝に抱いた白黒の小さな中国犬を撫でながら尋ねた。洗い立ての室内犬は時おり人間のようないびきをかきながら気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「どうもこうもクレシー公爵があれだけ乗り気なのだから、わたしとしてもできるかぎりの援助をしてやらねばなるまい。厄介事がまた一つ増えてしまった」
「違います、マランジュさんが置いていった封筒のことですわ」
「封筒?」
「ええ、封筒です」
「封筒……ああ、そういえば何やら置いていったな」
 ジャン=マルクは目頭を右手で強く押さえつけた。どうやら飲みすぎたらしい。彼は無残な有様となった晩餐用の食卓から水の入ったグラスを手に取ると、一気にのどへ流し込んだ。「ところで、きみ」マランジュが置いていった封筒を探すため、ジャン=マルクは危なっかしい足取りで席を立った。「彼はとても好感の持てる男だね。クレシー公爵が彼との会話に夢中になってしまったのも頷ける。オリヴィエも彼を贔屓にしているようだし、シャバイユ夫人などは素っ気ない態度を貫いてはいたが、まんざら彼を嫌っているわけでもない様子だった。わたしは彼のような気質を持って生まれる幸運に恵まれた人々を昔から羨ましく思っていたものだよ。ほんの二言三言の言葉を交わすだけで、その場に居合わせる者たちをすっかり魅了してしまうのだから」
「役者とは、そういうものですわ」
 例の封筒は扉付近の椅子の背もたれに、いたって無雑作に放置してあった。ジャン=マルクは薄っぺらい封筒を手にすると、婦人と一匹がくつろいでいる窓辺の肘掛け椅子へ顔を向けた。「あったぞ」彼は怪しげな封筒の中身を確認するかのように、軽く上下に振ってみせた。マノンの膝で眠りこけていたジョリーが控え目な寝返りを打った。屋敷の主人が封筒の紐を解く様子を眺めつつ、マノンは落ち着きのない様子で言った。
「その封筒の中に何が入っているか、わたくし存じていますことよ。開けてごらんなさいませ、きっと薄い台本が一、二冊入っているに決まっています。彼は劇場関係者のお友達を多くお持ちのあなたに取り入るため、ひどく尤もらしい理由を引っ張り出してきたようですわね」
「本当だ! 台本が二冊入っている」
「あの方は己の利益にならないことは何一つしようとなさいませんけれど、ご自分の出世や楽しみのためであれば、なんだってやってのける人物ですから」表情豊かな双眸がジャン=マルクを捉らえた。「とは言っても、悪い方ではありません。彼のような人材は将来有望。いまにきっと、パリでも指折りの著名人になりますわ、あなた……ところで、その台本の演目はご存じ?」
 ジャン=マルクは窮屈な襟元を緩めながら二冊の台本を手に取り、その安っぽい表紙をしげしげと眺めた。どちらも極端にページ数の少ない台本で、片方の表題は『ニコル』となっていた。「ニコル?」
「人気のお芝居だそうですわ。うちの女たちもこぞって通いつめているようなのですけれど、当日券さえ滅多に手に入らないのだと嘆いていました。サマルス男爵も先月ご覧になったそうですわ」
「聞いたことのない演目だ」
「大衆向けのお芝居ですから、わたくしもサマルス男爵に教えていただくまでは存じませんでした。なんでもえらく評判が良く……ああ、俗に言う仕掛け芝居の作品だそうで、大掛かりで派手な演出が、市民たちの財布の紐をゆるめさせているのだろうと男爵はおっしゃっていましたわ。あの方はもっぱら花火だとか、宙づりだとか、その手の演出で盛り上がるのが大好きですから、その作品がお気に召したのでしょう。台本はマランジュさんが手掛けられたそうですわ。錬金術師のニコル嬢に想いを寄せる田舎者の青年と、同じくニコル嬢に恋をした青年の父親が、唯一彼女に手紙を取り次ぐことのできる侍女二人から無理難題を吹っかけられるという筋書きだったと、わたくしは記憶していますけれど……」
「錬金術ねえ」と、いかにも興味がそそられないといった調子で言う。「彼もまた妙な題材を選んだものだ」
「旬の話題で人々の好奇心を刺激することは、決して悪い選択じゃありませんわ。少なくとも錬金術師の株ときたら、近ごろ市民たちのあいだではうなぎ登りでしょう。ロアン家に出入りしている占い師のイタリア人、カリオストロ伯爵とおっしゃいましたっけ……」
 窓辺に佇んで朝日を浴びるジャン=マルクは、来客たちの馬車が次々と門を出ていく様子を静かに眺めていた。マノンは恋人の横顔を愛おしげに見つめ、ようやく彼と二人きりの時間を過ごせるのだという安堵に口許を緩ませた。なにかと気忙しい職に従事し、また同業者から宮廷貴族、商人まで、それこそ幅の広い交友関係を築くジャン=マルクを、マノンただ一人が独占できる時間はかぎられている。両者のあいだに存在する距離は彼らが出会った三年前から、目に見える変化はこれといってないように思われたが、それでも彼女は辛抱強く待ち続けるのだった。マノン・エマニュエル・デプレットは高級娼婦であり、その職業を恥じたことは一度たりとなかった。しかし、かといって取り返しのつかない道を選んでしまった幼き日の彼女は、たしかに軽率であった。マノンは世間の価値観に身を委ねすぎたことを、ジャン=マルクに出会って初めて気づき、そして大いに後悔した。情事にはじまる放蕩、女たちの虚栄心、社会的地位や財産のことしか頭にない貪欲な男たちにほとほとうんざりさせられてきたマノン、もとい世の中の男たちの性質をすべて知った気になり、どこか自暴自棄になっていた若き娼婦にとって、素直で温かみのあるジャン=マルクの人柄は新鮮であり、誰よりも魅力的に映った。つまり愛されることに疲れたマノンにとって、ジャン=マルクは初恋の相手にも等しかったのである。彼女はしばし自分の過去の行いを振り返っては、もしかすると存在したかもしれない、もう一つの人生に思いを馳せた。もしも自分が貴族相手の愛人などではなく、もう少しまっとう女であったとしたら? しなしながら、いまのような職業にでも就いていなければ彼女はジャン=マルクと出会うことすらできなかっただろう。コンクという田舎町で結婚し、子を産み、貧しさに喘ぐ多くの者たちと同様、パンがいつ手に入らなくなるとも分からない不安に怯えながら生きていかねばならなかったはずだ。何の不自由もない現在の豊かな生活を捨てたところで、汚れなき少女時代の心と体は戻ってこない。が、この“もしも”は常に彼女の心についてまわった。
「さて、マノン……」
丸々と肥えたドマ氏、大柄なエルロイ氏の両人に脇を支えられたオリヴィエが馬車の座席に放り投げられたところを確認したのち、ジャン=マルクはさも自然な動作で、傍にあった呼び鈴を鳴らした。マノンは落ち着かなそうに髪飾りを整えると、隣に佇む鈍感な恋人をちらりと見上げた。その視線に気づいたジャン=マルクはわずかに首を傾け、普段と変わらぬ穏やかな微笑を彼女に返した。物欲しげな視線に応えるかのように、彼はマノンの体を抱き寄せる。たとえ結婚という脈がないに等しかったとしても、マノンは今後もジャン=マルクの傍を離れられそうになかった。
「お呼びでしょうか、旦那様」
 恋人の腕に抱かれるという喜びを味わうことが許されたのは、ほんの一、二分足らずであった。青の花びらがふんだんに添えられたマノンの髪飾りをもの珍しそうに引っ張っていたジャン=マルクは、高齢の召使いが姿を現すなり、「彼女の馬車を頼むよ」と爽やかに命じた。
 それまでは好き勝手に髪をいじらせていたマノンだったが、途端に顔色を豹変させた。老人は意外そうな表情を浮かべながらも、「かしこまりました」と部屋をあとにした。
 マノンは恨めしそうな表情でぼやいた。「近ごろのあなたは、ちっともわたくしたちのお相手に時間を割いて下さいませんのね」
「すまないと思っているよ、しかし今日はこれから市庁舎へ出向かなければならないのだ。書生たちの一人がシャトレ裁判所の代訴人と厄介な諍いを起こしてしまって、その収拾に行くよう頼まれていて……」
「ねえ、あなたも土地をお買いになったら? 絶対にそうするべきですわ、だって土地をお持ちになれば、他の方々のように家でじっとしていても、不自由なく暮らしていけるのですから。せわしなく裁判所へ足を運ぶ必要もなくなりますでしょう」
「しかし……」ジャン=マルクは困ったように口ごもる。「わたしはいまの職を気に入っている。たしかにパリの社交界は華やかで洗練されていて、かつ最高の品格を兼ね備えていることも認めるが、法廷ではそれ以上に興味深い人間関係を垣間見ることができるのだ。きみにもよく話して聞かせているような馬鹿馬鹿しい訴訟だったり、男女の色恋にまつわるおどろおどろしい事件、貴族たちが土地をめぐって起こす裁判も少なくない。名高くも面白おかしい訴訟事件、だ。わたしはもっぱら政治裁判の法廷しか任されてはいないが、それだって社交ほどには、わたしを退屈させないだろう。それに……」
「でもあなたは普段ちっとも、お仕事の話を聞かせては下さらないじゃありませんか」と、マノンは彼の発言を遮った。「幸運にも、わたくしはこれまで裁判所とは無縁の生活を送ってまいりましたから、法律には疎いんですの。評定官というのは、被告人や証人のお話しを聞いて、無罪か有罪かを判断するお仕事だと伺っていますわ。あなたを前にすると、わたくしはまるで、法廷に連れてこられた罪人にでもなった気がいたします。嘘をつくことを許されていないのですわ。普段であれば胸の奥に留めておく本音が、あなたの前ではこんな風に、口をついて出てきてしまうのです。わたくしを煩わしい女だとお思いになるかもしれませんわね、ええ、でもわたくしだって人並みの分別くらい備えています、あなたの持っていらっしゃる愛のすべてを欲したりはいたしません。ただほんの少しばかりで構わないんですの、わたくしは……」
 彼女は言葉を詰まらせた。男にとって《都合の良い女》を演じ切ることで、現在の誰もが羨む生活を手にすることが叶ったマノンは、もはや長年に渡って蓄積されてきたその性質とは、切っても切れぬ仲となってしまっていた。哀れなマノンは喉元まで出かかっていた次の台詞をぐっと抑え込むと、妙な方向へ折れ曲がっていたジャン=マルクの襟元を整えてやりながら、やり場のない虚しさと静かに戦うのだった。ジャン=マルクはといえばひどく申し訳なさそうな表情で、彼の視界の中央で揺れるマノンの髪飾りを見つめていた。二人は傍に置かれてあった椅子に腰掛けると、互いに無言のまま、しばし気まずい沈黙に耐えた。実のところ、こういったやり取りに発展するのは珍しいことではなかった。
「旦那様、馬車の準備が整いましてございます」
 奇妙な空気が流れるなか召使いの声が聞こえてきたので、マノンははっと顔を上げた。ジャン=マルクは窓辺に寄り掛ってえらく神妙な表情で例の台本をめくっていたが、召使いの声に気づくと、一瞬にして普段の気の抜けた顔つきに戻る。マノンは彼が時おり無意識のうちに浮かべる、この真面目くさった表情が苦手だった。ジャン=マルクの過去について、マノンがいまだ知ることのできない部分は多く残っている。マルシャン夫人や口の軽い貴族連中などを通し、人伝に前妻との思い出話を耳にすることはできたが、本人の口からは一度もそれらを聞けた例がなかった。勇気を振り絞って尋ねてみたところで、ジャン=マルクはするりと別の話題に話を切り替えてしまうのである。これはオリヴィエに関しても同じことが言えた。二人が口にするのはもっぱら当たり障りのない世間話か、あるいは人の噂話ばかりだった。彼らの内面や私生活の深い部分にまつわる話題となると、両者は途端に口を閉ざしてしまうのだった。
「そうだ、マノン」別れ際、ジャン=マルクは彼の穏やかな人柄が大いにうかがえる例の顔つきでマノンに問い掛けた。「クレシー公爵のお母上が来月で七十歳を迎えるらしく、盛大な誕生会が催されるとのことだ。公爵はきみにも是非参加してもらいたいそうで、わたしからきみの都合を聞いておくように頼まれていたのだが、すっかり忘れていた。もちろんわたしやオリヴィエ、ペレゴー男爵なども招待を受けているが、きみの都合はどうだろうか? 来月の十八日、ナンシーの別荘だよ」
「十八日前後でしたら、特に大切な予定は入っていなかったと思いますけれど……」
 ジャン=マルクの表情はマノンを自分の妹とでも勘違いしているかのように、どこか父親的な慈愛をたたえていた。彼女はそれが気に食わなかった。「数日中にお返事いたしますわ」
 マノンは階段付近まで屋敷の主人に見送られた――当時の習慣から考えると、実にめずらしいことである。男であれ女であれ、客人とは室内で別れるのが通例なのだから――のち、年老いた召使いと共に屋敷の外へ出た。屋敷を出たところにはジャン=マルクが所有する豪華四輪馬車が用意されており、彼女は逃げるように馬車へ乗り込んだ。背もたれに体をあずけたところで、瞼を閉じる。清々しい夏の朝日を瞼の下に感じながらも、心は濁色の霧に包まれているかのようだった。そもそもマノンが人並みの《諦めの良さ》を持っていたならば、とうの昔に別の貴族との結婚を決意していたに違いないのだ。


 パリを訪れる観光客たちは、誰もが口を揃えてこう言った。《パリは臭い》。そして嘆かわしいことに、疑いようのない事実であった。当地で生まれ育った不運なパリっ子以外、つまり地方からやってくる出稼ぎ労働者や、同じく地方に館をかまえる田舎貴族、胸踊らせパリへやってくる外国人観光客などは、まずはこれらの問題と真正面から向き合わねばならなかった。「我慢できたものではない」とドイツ人であるパラティーヌ公女――オルレアン公フィリップ一世の二人目の妻である――に言わしめた悪臭について軽く言及しておくと、狭く曲がりくねったパリの路地は、馬車という交通手段が一般的になる以前に造られたものであり、その幅はニメートル前後。しかもパリでは住民たちの多くが縦に重なって暮らしている。すなわち建物と建物は極端に隣接しており、またセーヌ河にかかるポン・ヌフとポン・ロワイヤルを除いた橋のすべてに三階から七階建ての家々が立ち並んでいるせいで、風通しは文句なしに最悪だった。新鮮な空気など、どこにもありはしない。パリ市内にくまなく充満し、住民たちの健康を害し続けてきたかの腐った空気は数百年も前からずっと、あいもかわらずパリの街に閉じ込められたままとなっていたのである。腐った空気は胸がむかつくような悪臭として、人々の鼻孔を不快にさせた。悪臭の原因はおもに泥や排水溝、街の中心部に位置する屠殺場からの血生臭い空気、悪名高きイノサン墓地をはじめとした約二十の墓地から発せられる死体臭、どこぞの薄暗い路地や公園、セーヌの河辺から漂ってくる汚物の悪臭、詰まりに詰まった各家庭の便所の配管などである。さて、以上の問題が気づかせてくれるであろう事実は、つまり香水職人にとってパリは格好の仕事場であるという、まこと道理にかなった状況であろう。金のある上流階級の者たちは不自然なまでに強烈な香りを放つ香水を体中に振りかけては満足げに舞踏会や賭博場へ繰り出す。が、彼一人きりであればまだしも、大勢の人間が詰めかけ密集する社交場において、それは強烈な悪臭をよりいっそう我慢ならぬものにするだけだった。様々な匂いをもった香水が混ざり合い、またしても新たな悪臭が生み出されるのである。ひどい悪循環だった。なお余談ではあるが、汲取り人たちが犯す不正によって下水道へと流された市民の糞尿は、上流メニルモンタンから始まり下流のシャイヨーを辿って、セーヌ川へ注がれる。そしてパリジャンたちの多くが生活水を水売りに頼りきっており、また二万人の水売りたちはもれなくセーヌ川に生計を支えてもらっているという現実。果たして、これらは取るに足らない問題であろうか? ひとたび疫病など流行しようものなら、パリの人口は現在の半分以下となろう。イギリスの学者たち、主にジョゼフ・プリーストリーらによって唱えられ、一部の知識人たちに絶大な支持を得ていた学説の一つに《植物は腐った大気を浄化する作用を持つ》というものがあった。この学説が真実であれ嘘であれ、ジャン=マルクにしてみれば屋敷内の庭園を生命力に満ち溢れた自然の草木で満たす良いきっかけとなったことだけは確かだった。
 馬車の手綱をにぎる御者は、我先にと道を行く歩行者たちを怒鳴りつけるかのように「ご用心! 気をつけろ!」と、しきりに叫んでいた。狭く汚い通りを根気強く進む馬車の中で、ジャン=マルクはすでに飽きるほど目を通したジュールナル・ド・パリ紙を二つ折りにすると、眠たそうに瞼を擦った。外の騒がしい喧騒、通行人や御者たちの怒声、声を張り上げて客寄せに精を出すカミさん連中の金切り声さえ耳に入ってこなかったなら、彼はとっくに寝こけてしまっていただろうが、パリの中心部にあって例の賑わいを無視することは不可能である。なおかつ炎天下の馬車内ときたら脳に何らかの異常をきたさんばかりの暑さで、ジャン=マルクは先ほどからしきりに「暑い、暑い」と呪文のように繰り返していた。たかだか市庁舎へ出向いて話をするだけだというのに、宮廷風の暑苦しい礼服になど身を包むべきではなかったのだ。彼は己の選択を後悔しつつも、今朝方マランジュが置いていった例の封筒を手に取った。パリの中心部を馬車で移動しようとすれば下手すると徒歩以上に時間が掛ることはしょっちゅうだったから、彼は大概において新聞や小説、建築の専門書、その筋の関係者から譲ってもらった芝居の台本など――時には彼らしからぬ気まぐれで、下品な風刺小説を読むこともあった――なにかしらの読み物を懐に忍ばせ、いざ馬車へと乗り込むのが常であった。ジャン=マルクは車内の湿気でよれよれになってしまった台本の一ページ目をめくった。表題は『いたずらっ子の踊り』とあった。彼は寝覚めの悪い頭を鈍器で力いっぱい殴られたような衝撃を感じた。有名な作品である。
 窓の外を過ぎていく薄汚れた景観も忘れ、また騒々しい賑わいすら耳に入ってこないほど、彼は読書に没頭した。元より芝居が好きであったし、なにより彼はマランジュという青年に興味を抱かざるを得なかった。自分とはまったく別の世界に住む者に対する、純粋な好奇心である。
 最後のページをめくらんとしたところで、ジャン=マルクの足元に小さな便箋がひらりと落下してきた。彼は思わず「おお」と間抜けな声をあげた。拾い上げた便箋にはみみずが這うような文字で“ニコルのチケットを同封いたします。ぜひ足をお運びください”と書かれていた。台本の最終ページを恐る恐るめくったところ、ジャン=マルクはそこに三枚のチケットを発見することができた。三枚ものチケットを、一体どうしろと言うのか。「なんだ、しかも今夜の公演じゃないか!」
「旦那様、旦那様」
 マランジュの強引なやり口に呆れ果てながらもジャン=マルクは御者の呼び掛けに応え、窓から顔を出す。馬車はちょうどシャンジュ橋の手前に差し掛かったところであった。「どうした」
「いえ、余計なお節介だったら申し訳ありませんが」御者のピエールは汗だくの額をハンカチで拭い終えたのち、数十メートル先にある市場の一角を指で示す。「よろしいんですか、今日は壁をご覧にならなくて」
「そうだ、すっかり忘れていた」
 ジャン=マルクは慌てて台本を脇に置いた。「いつものあたりで馬車を止めてくれ、ピエール」
「かしこまりました」
 パリ高等法院や市庁舎などシテ島界隈へ馬車を向かわせる際、ジャン=マルクはとある地区の壁全体を覆い尽す貼り紙の数々に目を通す習慣があった。ピエールは馬車の速度を落とし、ジャン=マルクは窓から外に顔を覗かせた。壁を占拠する貼り紙は、総勢四十人のビラ貼り人たちによって毎朝きっちりと貼り変えられる。貼り紙の種類はそれこそ多岐に渡るが、今夜パリの劇場で上演される芝居のビラ、これらの貼り紙に目を通すのは仕事前の彼にとって、ささやかな楽しみの一つだった……が、今日はすでに小さな先客がいるようだった。
「どんなお芝居なの」
「下に粗筋が書いてあるだろう、それを読め」
「字なんて読めないわ」
「勉強するんだな」
 小ぶりの梯子を肩に担いだビラ貼り人と、年は十二歳前後であろうか、少女のやり取りである。ピエールとジャン=マルクは顔を見合わせた。ピエールは通行の妨げとなっている両人に向かって、「ご用心」と車上から告げる。「馬車が通りますよ」
「おっと、こりゃ失礼」
 今朝の仕事を抜かりなく遂行し終えたビラ貼り人は実に無愛想で、肩には梯子を、右手には糊のつぼを引っさげたかと思えば、逃げるようにその場を去っていった。ピエールは馬車を停車させる。例の少女の方はといえば、ビラの前に立ち尽くしたまま、ジャン=マルクの豪華四輪馬車を興味津々といった様子で見上げていた。この時点で、ジャン=マルクの頭には一つの妙案が浮かんでいた。泥まみれの赤いドレスを着た、不健康そうだが愛らしい眼差しを持った金髪の少女は、裕福そうな貴族が自分を熱心に見つめていることに気づくと、ジャン=マルクに向かって邪気のない笑みを送った。自分の妹も一歩違えば、この少女と同様の境遇に生を受けた可能性もあったのではなかろうか。そう思うと、彼は胸が痛んだ。
「きみ、そこのお嬢さん」ジャン=マルクは馬車の中から呼び掛けた。「お芝居が好きなのかね」
「わからないけど、たぶん好きだと思う」
「たぶん?」
「残念ながら、まだ本物を観たことはないの。でもおじさん、あたしはお芝居の題名と内容だけなら、誰よりも詳しいのよ。お店の常連さんがね、いつも声に出して新聞を読んでくれるから」
 居た堪れなかった。ジャン=マルクは複雑な表情で、例のチケットを二枚取り出した。「実は知り合いにチケットをもらったのだが、余分に寄越されてしまって、持て余していたところなんだ。《ニコル》というお芝居を知っているかな? よかったらきみにあげよう。チケットは二枚ある。お母さんや家族、友達でもいい、誰かを誘って行っておいで。今日の夕方六時半から、場所はルーヴル広場の近くにある……」
「あたし知ってるわ、オグノン一座でしょう! 有名だもの!」
 少女は甲高い叫び声を上げ、差し出されたチケットを荒っぽく掴み取る。ジャン=マルクは一瞬むっとしたが、彼女の嬉しそうな表情を見るとすぐさま考えを改めた。いまにも飛び跳ねんばかりの興奮状態の中、少女は馬車の窓から差し出されていたジャン=マルクの腕に気づくと、すかさずその手の甲に数回ほど口づけた。当然ながら、彼は目を丸くした。が、この少女の反応はいたって正常なものであるかもしれないと、馬車の周囲を見回したのち静かに納得した。茶色の布切れに身を包んだ浮浪者に加え、やせ細った労働者たち数人が、ジャン=マルクと少女のやり取りを不審そうに観察していた。ジャン=マルクは彼らの瞳の奥に潜む、憎悪という感情を敏感に感じ取った。
「こんな服を着ていても、中に入れてもらえるのかしら? うんとおめかしをして行かなくちゃだめね。……ありがとう、貴族さん! あなたのような優しいお金持ちがもっと増えてくれたら、わたしたちはいまよりもずっと心にゆとりを持って暮らしていけるだろうにって思うわ! ありがとう、ありがとう」
 それだけ言うと、少女は風のように裏路地へと姿を消してしまった。
「旦那様、そろそろ出発してもよろしゅうございますか」
 御者のピエールはうしろを振り返ると、いささか不服そうに尋ねた。
少女が走り去っていった裏路地をじっと見つめていたジャン=マルクは、ピエールの問い掛けにそっけなく答えた。「ああ、出発してくれ」
「かしこまりました」
 少年の域を出て間もないピエールは、主人の命令に頷きながらも、恨みがましそうに言った。「……あんな子供にチケットをあげちまうくらいなら、おれにだって一言くらいお声を掛けて下さってもよろしいじゃございませんか」
「お前のことだ、チケットをやったところで、すぐさま金に換えようとするだろう」
「旦那様はおれを何だと思っていらっしゃるんです! おれという男は、そこまでロクでなしじゃありませんよ」
「さあ、それはどうかな」
「遺憾です、旦那様、おれは今の言葉でひどく傷つきました」
 ジャン=マルクは自分がとても良い行いをしたような気になって、その後の話し合いにしても、いつになく円滑に問題を収拾することができた。今日は調子がいい、と彼は思った。例の芝居の開演まではまだ時間がたっぷりと残っていたので、彼はマノンの屋敷を予告なしに訪問してみることにした。今朝の一件で気落ちしていたマノンであったから、彼女は恋人の姿を客間に見つけるや否や、泣きそうな表情でジャン=マルクに飛びついた。それから数時間は、同じくマノンの自宅を訪れていたキュスターヴやダルジャン伯爵といったジャン=マルクにとっても馴染みの面々と共に、他愛のない世間話に華を咲かせた。彼がマノンの屋敷をあとにすることを許されたのは、かれこれ芝居開演の三十分前だった。




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