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「ああ旦那さま、あなたというお方は、まったく!」
 呆れ返ったような女中頭の声が清々しい午後の庭先に響き渡った。年配の女が苛立ちのこもった手つきでばしゃばしゃと騒々しい水音を立てながら洗濯に精を出している後姿を横目に、濡れた洗濯物を干している二人の年若い女中たち、そして絞めたばかりの鶏の毛をせっせとむしっていた大柄な料理女はくすくすという忍び笑いを先ほどからしきりに繰り返していた。むっとするような南風が彼らの頬をかすめた。これがサン=タンヌ通りの閑静な一角に門を構えるアルビオン館のごくありふれた日常の風景だった。
「でもねえ、見てちょうだい」と、年配の女中はなおも続けた。「この真っ黒いインクの染みときたら、洗っても洗ってもいっこうに落ちやしない。ここ数日の旦那さまときたら、毎晩のようにこうなんですから困ったものよ。小さな黒い染みをつけた敷布が屋敷の中に何枚あることか、考えただけでもぞっとします。第一これらをきれいさっぱり捨ててしまうのかどうするのかと旦那さまにお尋ねしたところで、ちっとも明確なお答えをいただけないんですから、それこそあたしたちはこの布の山をどこに保管しておけばよいものかと、毎日のように考えなくてはいけないんです。物置部屋をもうひとつくらい作っていただかなくては、とうてい足りませんわ」
「それは聞き捨てなりませんな、奥さん」西に面した二階の自室から窓の外へ顔を覗かせていたジャン=マルクは声を張り上げた。「わたしの詩を読みたいとマノンがせがむのだから、仕方がないでしょう」
「いやだ、あなたの詩を拝見したいとたしかにわたしはお願いしましたけれど、なにも女中たちの悩みの種をこれ以上増やしていただきたいと申した覚えはございませんわ」
 ジャン=マルクの横で午後のまどろみにひたっていたマノン・エマニュエル・デプレットは、ソファへ沈めていた体をけだるげに起こした。彼女の言葉はこの屋敷の主の機嫌を損ねるに足りうるものだった。
「きみがそうした賛同を示すから、女中たちがつけ上がるのだ」
「やめろよ、男の八つ当たりは見苦しいぞ」
 もう一人の来客であったオリヴィエは心底愉快そうに言った。
 さほど広くないジャン=マルクの書斎には、彼らのようにごく親しい友人たちのみが入室を許されていた。こまごまとしたものが散乱する室内の床には書物や図鑑、年代不明の写本、クラヴサンの楽譜、昆虫の標本などがいたるところに積み上げられており、また部屋の中央に位置する中国製の円卓の下にはジャン=マルクが趣味程度にたしなむ写生用の絵筆が転がっているという、上流階級の紳士が使用するにはおおよそふさわしくない悲惨なありさまだった。というのも、彼は図書室や温室、談話室といった屋敷内のすべての部屋を使用人たちに開放し、自分の留守中であれば自由に利用することを許可していたので、ここはジャン=マルクが人目を気にすることなく寛げる唯一の空間だった。よって女中たちがいくら掃除をすると申し出ようとも彼は頑なにそれを拒否し、自ら膝をついて床を拭き始める始末なのだった。
 オリヴィエをはじめとする幼友達の大半は彼の秘密めいた書斎の有り様を好意的に受け止めていたが、唯一マノンだけはこの奇妙な一室に足を踏み入れるたび眉をひそめ続けていた。西向きの窓を備えた書斎はたしかに明るく、不衛生さはかろうじて影をひそめていたが、横長の小部屋の隅には見たこともない異国の弦楽器や、墨で描かれた日本の風景画、出入り口付近の壁には緑色をしたペルシア風のタペストリー、きわめつけは壁一面をびっしりと覆い尽くす数々の仮面で、しばしマノンは彼らが自分たちの行動を監視しているのではなかろうかといった錯覚を起こしそうになるのだった。これらの仮面は実際のところ、持ち主のジャン=マルクにとってさえ大した愛着のない飾り物にすぎなかったが、しかし二十年以上の歳月をかけて地道に収集してきた、少なくとも彼にとっては自身の収集癖を満たす大切な品々だった。生来おせっかいな性質を持ち合わせているマノンは当然ながら友人のがらくた部屋に関してはいくらか苦言を呈したい気持ちでいっぱいだったが、殿方の個人的な趣味に女である自分が軽々しく口を挟むことはさすがに気が咎めたので、表立った批判はせぬよう努めていた。
 その点ではオリヴィエほどジャン=マルクの良き理解者と呼べる男は他にいなかった。彼は友人の収集癖に心からの理解を示しており、また最大の協力者でもあった。現に室内に置かれた風変わりな調度品や絵画、訪問者の視線を否応なしに注目せしめる奇抜な仮面のいくつかはオリヴィエによって持ち込まれた品々だった。
「それよりもジャン、早く続きを聞かせてくれ。本来読み物であるはずの詩をわざわざ口頭で披露する貴族連中の悪趣味にはこれまで賛同しかねていたが、情調溢れるきみのオック語はわたしの耳にとってたいそう聞き心地が良いものらしい。わたしの音楽の師であるカルロ・ストルーパも、以前きみがわが家の晩餐で行った詩の朗読をたいそう気に入っていた。そこらの歌い手よりずっとすぐれた素質を備えている、と絶賛していたよ。読み上げた詩の数々が、たとえきみ自身の作ではなかったという事実を知ってもね」
「きみはいちいち一言余計なやつだな」
「知りませんでしたわ! あのストルーパ先生がそうおっしゃったの?」
 マノンは瞳をぱっと輝かせると、自分の正面に腰掛けていたジャン=マルクのほうへ身を乗り出した。カルロ・ストルーパは彼ら三人の共通する友人であり、ニ十年ほど前にローマからフランスへ亡命してきたイタリア人音楽家だった。マンハイム宮廷楽団も顔負けのクラヴサン奏者であるオリヴィエにその卓抜した技術を仕込んだのは、他でもないストルーパ氏だった。若き美女は言葉を続けた。「もしも本当だとすれば、あなたがお戯れの詩作に費やしている貴重な時間をすべて歌のお稽古に注ぐべきですわ。わたしが言うのもなんですけれど、あの方ときたら世間ではどれだけ賞賛を浴びている歌い手であっても、褒めるということを滅多になさいませんもの。噂では王后陛下のお歌に良心からのご助言をされた咎で、宮廷への出入りを禁止されてしまったそうですけれど……サマルス男爵、あなたは真相をご存じなのじゃない? 例の噂を聞いたとき、わたしは耳を疑いましたわ。大胆と言いましょうか、恐いもの知らずと言いましょうか」
「本人はなかなか口を割らずにいるが、例の噂に悪意ある脚色がなされていること以外はおおむね真実だろうとわたしは踏んでいるよ。あの一件こそが彼の眼識を人々に信用足り得させた、最たる理由じゃないか? わたしは彼のように裏表のない、芸術家として自負心の強い人物が、今日における芸術の衰退をかろうじて留まらせていると思っている」
「きみたちは二人揃って、ぼくを歌い手にでも仕立て上げる魂胆か」
 ジャン=マルクは眉間に皺を寄せ、飲みかけのコニャックを一気にのどへ流し込んだ。オリヴィエはル・プロコープから届けさせたミルクとアーモンドのアイスクリームをスプーンで掬いながら、「それも悪くない」とすげなく答えた。アイスクリームはすでに半分ほど溶けかかっており、すでに原形を留めてはいなかった。シャーベットにするべきだった、と彼は内心後悔していた。「しかしながら友よ、きみは六十七リーブルをわたしに返済する義務があることを忘れてはいないだろうな? こうして催促してやらないと、きみという男は重い腰を上げようとしないのだから、つくづく困ったものだ。支払いの期限は先週だったはずだ。歌い手にでもなって、一刻も早くわたしへの借金を返済したまえ。もっともきみが詩人になりたいというのであれば余計な邪魔立てはすまい。せいぜい努力してみるがいいさ。わたしはおすすめしないが……」
 ジャン=マルクは言い返してやろうと口を開きかけたが、隣で砂糖菓子のデコレーションを舐めていたマノンに制止をかけられたので、ここはおとなしくしていることにした。マノンは指に付着した甘ったるそうなはちみつを口に含んだ。想像していたよりも、甘さは控えめだった。彼女は苦々しげな表情を浮かべたのち、真向いのソファに腰をおろしているオリヴィエへと視線を向けた。
「そうは言っても、あなた……あなたもわたしに返済すべき五十リーブルがあることを、よもやお忘れではないでしょうね?」
 途端にオリヴィエは顔色を変えた。マノンは彼の動揺した表情から、しまったという四文字の言葉を見出した。ジャン=マルクは友人たちのやり取りを満足げに見つめていた。
「マノン、マノン」オリヴィエは激しく首を振りながら、心外だとばかりに彼女を窘めた。「小金の話を人前で持ち出すなど、いったいきみは女性の風上にもおけない」
「やはり忘れていらしたのね」
「まさか」
「嘘をおっしゃいよ」
「そんなことはない」
 彼女は大きめの前歯を見せながら、裏表のないからっとした笑い声を上げた。
「あなた方お二人って、どこか似ているところがあるわ」
 口元を汚す溶けかけのアイスクリームを舌で舐め取りながら、オリヴィエは不機嫌そうにぼやいた。「きみは借金の催促をするためにこの屋敷へやってきたのか? 結構なことだ」
「いいや、彼女がわが家を訪れたのはきみと同じ理由によるものだよ」
 窓の外からはあいかわらず女中たちの賑やかな話し声が聞こえてきており、生い茂ったプラタナスを神経質そうな目で見つめていた庭師が、「はしごを持ってきてくれ」と、やっと重い腰を上げたところだった。助手の青年はすばやく手押し車の元へ走っていった。この屋敷に住み込みで働いている若い女中の一人が彼に熱っぽい視線を送っていることに気づいた大柄の料理女中は、苦笑いを浮かべながらも庭の一角に植えられたハーブの葉を数枚ほど引きちぎった。
 屋敷によっては使用人同士の諍いがたえず、執事や女中たちの仲は非常に淡泊、殺伐としているところも少なくないらしいのであるが、デュクレー氏の屋敷で働く者たちはみな穏和で責任感が強く、他所では日常茶飯である見苦しい対立や陰口などは一切見受けられなかった。これらはひとえに主人の気質によるものが大きかろう。ジャン=マルクは貴族にしては庶民的でおごった態度もなく、誰に対しても公平な寛容さを持っていた。この平和で融通の利く職場で働く権利を獲得した幸運な者たちは、めったな事情がないかぎり屋敷を離れようとはしなかった。彼らの日給は他所の使用人たちよりもほんのいくらか多い程度だったが、有能な執事は毎週欠かさず賃金を支払ってくれたし、主人の留守中であれば図書室やサロンを自由に使用することが許されていた。それ以外にも余った食材や使い古した日用品など、主人の許可さえあれば自宅に持ち帰ることができた。彼らにしてみればいま以上にすぐれた職場環境を手に入れることはほぼ不可能のように思われた。そしてデュクレー氏が年給三五〇〇リーブルで雇い入れた料理女中のマルシャン夫人はパリでも指折りの料理人といっても過言ではないほど、大勢の人間を同時に満足させる料理を作ることにかけて、右に出る者はまずいなかった。彼女の料理を心から崇拝するオリヴィエやマノンにしても、なにかと理由をつけては彼女の料理目当てに友人の屋敷にせっせと足を運ぶ始末だった。
「さあ、いまに女中たちが昼食を運んでくるから、それまで一勝負でもいかがかな?」
 ジャン=マルクが提案すると、オリヴィエは不敵な笑みで答えた。
「いやに自信たっぷりじゃないか。そうだな、きみが勝ったら六十七リーブルの件は帳消しにしてやってもいい。だがわたしが勝ったあかつきには、マノンの五十リーブルをきみが返済すること。今回の賭けは以上でどうだろう」
「よかろう。大勝負は夜の退屈しのぎに取っておいて、昼食前の勝負は軽くいこう」
 カードを取りに行くためにジャン=マルクが席を立つと、扇子でしきりに冷風を生み出していたマノンが熱にうかされたようなだらしのない表情で問い掛けた。
「ねえ、あなたの愛らしいワンちゃんはどこへ行ってしまったんですの? 今日はまだ一度もあの子の姿を見ていませんわ」
「外にいるんじゃないか? あるいは厨房で食べ物を物色しているのかもしれない」
 ジャン=マルクが戸棚にしまい込んだトランプを引っ張り出しているあいだにも、オリヴィエは対になった肘掛け椅子の片方に腰を落ち着けた。「きみの犬はいつだって、食べ物のことしか頭にないようだからな」これら古びた骨董品はオリヴィエが持ち込んできた中国製の肘掛け椅子で、背もたれに浮彫されている牡丹と蓮の模様が特徴的だった。年期の入ったトランプを取り出してきたジャン=マルクは、小さな丸テーブルに乗っかった埃を軽く手で払ったあと、友人の真正面に腰を下ろした。「いまの言葉をそっくりそのまま、きみにお返しするよ」
 彼ら二人のお遊びに、マノンは一切干渉しないことにしていた。
「それではわたし、お庭のほうを見てまいります」
彼女はふらりと立ち上がると神妙な顔つきでカードをより分け始めた男たちを部屋に残し、いまだ昨夜の酔いが覚めきっていない、にわかに覚束ない足取りで部屋をあとにした。洗濯物を両腕に抱えた女中の一人と廊下ですれ違ったマノンはその場で数分ほど談笑したのち、庭に通じる出入口が設けられている厨房へと足を向けた。
 日当たりの悪い調理場は窓や扉を開け放ってもまだなお屠殺場のごとき悪臭を放っており、オリヴィエの言葉を借りるならば《家畜の墓地》だった。それを聞いたマノンは、以前ここぞとばかりに自分の所持する不要な香水をかきあつめてくるとこの狭い墓地内に余すところなくふりまいてみたものだったが、気高き白百合の香りが効力を発揮した期間は、わずか半日弱だった。日当たりが悪く、窓が狭い。致命的な欠点だった。調理場に設けられた扉はぜんぶで三つある。廊下、地下の貯蔵庫、そして中庭へと続く扉であった。窓に関しては天井の程近くに長方形の小さな窓がひとつあるきりだった。この窓の小ささこそが室内に悪臭を封じ込める、最たる要因であることに疑いの余地はなかったが、改善される見込みはなさそうだった。倹約家のジャン=マルクは調理場の改築に年金を充てるなどまっぴらだと思っていた。
 調理台の脇には皮を剥いたばかりと思わしき新鮮な鴨肉が吊されていた。この赤みかがった生肉もじきジャン=マルク自慢の料理女中、マルシャン夫人の手によって大変貌を遂げた末、今夜の食卓に並べられるのだろう。不思議な匂いを放つ香辛料、乾燥させたハーブがたっぷり振り掛けられた鴨肉の奥では釜戸の炎が轟々と燃え盛っていた。室温が異常に高い上に新鮮な生肉や魚貝の臭いが充満する空間を一刻も早く抜け出すべく、マノンが中庭へと続く扉に手を掛けたときだった。階段を荒々しく駆け上がる靴音が響いてきた。右手に葡萄酒、左腕には色鮮やかな野菜を抱えたマルシャン夫人が雄々しい足取りをもって厨房に姿を現した。「お珍しいこと、奥様! このような場所で、またどうなさったんです?」
 料理女の仰々しい素振りにマノンは愛想笑いを浮かべた。「ワンちゃんを探していたのだけれど、あなた、居所をご存知ではないかしら? デュクレーさんがあの子は庭にいるんじゃないかとおっしゃっていたから、わざわざ探しにきたのよ」
「ジョリーならつい先ほど、裏庭でお洗濯されているのを見掛けましたわ。ほら、向こうの裏庭から女中たちの声がいたしますでしょう」
 夫人は腕に抱えていた荷物を調理台に乗せると慣れた手つきで薪を数本ほど掴み、釜戸の中へ放り投げた。小気味いい音を立て、火花がはじけ散った。マノンは開け放った扉から顔を外に覗かせると、きょろきょろと周囲を見回した。ほんの十数歩ほど離れた先にある裏庭からは女たちの楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「……あの様子だと、もう少し待っている必要がありそうね」
 ちょうど扉の傍に置かれていた丸椅子が目にとまったマノンは軽く埃を掃い、そこに腰を下ろした。この厨房からは庭の正面が見渡せた。こぢんまりとしたとした印象を与えるジャン=マルクの屋敷はやはり貴族にしては小規模だったが、広くもうけられた庭は開放感があり、マノンはそれらを大変気に入っていた。イギリス庭園を模範した庭先には季節ごとに色を変える草花たちが配色よく並んでいる。派手ではないが、素朴さのなかには心地好い温もりがあった。彼女はこの庭を眺めるたびに故郷コンクのシャルルマーニュ通りを思い出し、ふつふつと心に浮かんでくる幼少期の記憶を懐かしがるのだった。
「奥様がこのお庭を気に入って下さっているものだから、旦那さまはとても喜んでいらっしゃるんです」
 おだやかな表情で庭を眺めているマノンに向かって、マルシャン夫人は気さくに話しかけた。「あの方は噴水とか、大掛かりな彫刻を庭先に並べたりとか、そういった当世風がお気に召さないんですから、本当に変わっていらっしゃいますわ。それに対して旦那さまのお母上、ヴィニー伯爵夫人さまは……」
「ちょっと、ヴィニー伯爵夫人がどうしたの? 隠さないで教えて、誰にも他言しないから。気になるじゃないの」
「……パリのど真ん中にいったいどうして、わざわざ大金をかけてまで家畜の牧場をつくるのかと、お屋敷にいらっしゃるたび、大袈裟に嘆いていらっしゃるんですよ。伯爵夫人さまは隅から隅まで人工的に美しく整備されている、上品で洗練された庭園がお好きでいらっしゃるようです」
「デュクレーさんはお父さまに似ていらっしゃるから、そのあたりは仕方のないことよね。こういう表現は失礼かもしれないけれど、ここだけの話よ、マルシャン夫人、わたしあのお二人は少し変わっていると思うわ」
「否定はいたしません」
 アマリア・マルシャン夫人はデュクレー氏の屋敷で働き始めてから、今年でちょうど十二年となる古株だった。どこの屋敷においても料理係は重宝される存在である。彼女はジャン=マルクの一人目の妻であったテレジアに勧誘され、料理女中という名誉ある働き口を手に入れた。屋敷で働き始めた当初は独身であったマルシャン夫人も、世話好きな女主人の仲介によって再婚にこぎつけ、いまや三人の子持ちとなっていた。彼女はジャン=マルクの一人目、そして二人目の妻についても詳しく知る、屋敷で唯一の使用人だった。だからこそマノンも彼女に対しては一目置かざるをえなかった。
「そうですわ、奥様、今夜は奥様方のご来訪があるからと、旦那さまは普段の数十倍は腕によりを掛けてお料理をするようにおっしゃっていたんですよ」マルシャン夫人は調理台に吊るされた鴨肉を、包丁の表面で力強く叩いて見せた。「ですから、いかがです、この見事な鴨肉! これだけ上等なお肉を目の前にすると、わたしも腕がなるというものです」
「夜の晩餐会を楽しみにしているわ、マルシャン夫人」
 マノンがこの屋敷に出入りを始めてから、かれこれ二年が過ぎようとしていた。マルシャン夫人とてれっきとした女性であり、マノンの心情については重々理解しているつもりであったが、それでも結婚という脈が彼女にあるようには到底思えなかった。マルシャン夫人はマノンの中性的で清潔感ある顔立ちと、彼女が着込む外出用の白いドレスとを交互に見つめた。「今夜はみなさんでオペラ座へお出掛けになるとか。夏場の舞踏会はさぞ混雑していらっしゃるのでしょうね」
「そう、これだから夏はきらいよ。冬場のように、もっと頻繁に舞踏会を開いて欲しいものだわ……あれじゃスリの独壇場ですもの」
 仮にデプレット夫人がジャン=マルクにもひけをとらない高い教養を身につけており、貴族並みの品格と才気も十分に備え、かつ男性側の満足に足る持参金を用意できたとしても、結婚となると話は別だった。マルシャン夫人は女性特有の鋭い勘をもって、自分の主が再婚の意思を持たないことに薄々気がついていた。貴族の家柄という身分上、愛のない結婚であったようだが、二人の妻を立て続けに亡くしたジャン=マルクの精神的疲労は相当なものだった。マルシャン夫人は瓶詰のピクルスをおおざっぱに切り刻んだ。
「旦那さまはお気に入りの金時計を盗まれて以来、掏りに怯えていらっしゃいます」
「彼らにしてみれば、デュクレーさんは恰好の獲物なのだと思うわ。どこかぼんやりしているところがあるでしょう、あの方は……」
 マノンは思い詰めた表情で、轟々と燃え盛るかまどの火を一瞥した。ジャン=マルクに出会う以前のマノンであれば屋敷の使用人たちと世間話に興じるなど考えたくもない冗談であったが、あらためて考えてみると恋人の影響は意外なところにまで及んでいたらしかった。
 マノンは深いため息をつくと、マルシャン夫人が庭から摘み取ってきたばかりの青々としたハーブを鼻先に近づけた。ハーブの爽やかな香りは彼女の悲観的な思考を正常に戻す役割を果たした。マルシャン夫人は注意深く包丁を動かし続けた。




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