- 1 -

 彼らがマレー座へ連れ立って行ったのはその晩が初めてのことではなかった。いまや曖昧な記憶となってしまってはいたが、幼少のころにも二人揃ってこの劇場を訪れたことが一、二度あったはずだ。演目が喜劇であったことだけは確かに覚えている。
 親子ほど年の離れた兄妹が二階の下手寄りの桟敷に陣取ると、ひと足先に着席していた身なりのいい紳士淑女らの小型の双眼鏡が一斉に二人のほうへと向けられた。この上品な紳士淑女らは優雅に着飾った外見に反し、周囲の仲間の色恋沙汰を一から十まですべて把握していなければ気が済まないといった厄介極まりない習癖を持っていた。
「この視線さえなかったならば、わたしは毎日だって劇場に足を運ぶだろうに。あることないことで騒ぎ立てる好奇心旺盛な貴族たちときたらまったく手に負えん。いい迷惑以外のなにものでもない」
 元より人から注目されることに喜びを覚える年若き娘は四方八方から向けられる好奇の視線を別段気にする風でもなく、むしろ楽しんでいるかのようだった。肩身が狭そうな素振りを見せている兄のジャン=マルク・ド・デュクレー男爵とは異なり、常に世間体を気にしていなければならない上流社会特有の環境は彼女の性分によく合っていた。
「いつも忙しくしているお兄さまと違って、他の方々は退屈を持て余しているのよ。仕方のないことだと割り切って考えたほうがいいわ。それに今夜わたしが何色のドレスを着ていたか、明日にでも彼女たちの誰かに尋ねてごらんなさいよ。どうせ一日も経てば忘れてしまっているに違いないんだから」
「それはどうかな。わたしに新しい恋人ができたなどという好ましからざる噂が、明日になったらパリ中に広まっているかもしれない」
「事実でない噂が広まってしまったのなら、訂正して回ればいいだけのことじゃないの。紀元前じゃあるまいし、実の妹を恋人にする兄がどこにいるっていうのよ。やましいことがないのなら堂々と胸を張っているべきだわ」
 彼の妹であるシャルロットは遡ること二週間前にリヨンス・ラ・フォレの修道院を出たばかりで、年の頃は十七を半分すぎたところ、つまり何事に対しても必要以上の興味を抱かずにはいられないといった多感な年頃だった。現在はパリにある両親の屋敷に身を寄せ、きたるべき婚礼に向けて幾人もの家庭教師を雇い、いわゆる花嫁修業に精を出す日々を送っていた。翌週にはパリの社交界でそれなりに名の知れた銀行家、キュルヴァル氏の元へ嫁ぐことが決まっている。
「いやだ、まさか……」
 上流階級の人間よろしく双眼鏡で客席を観察していたシャルロットは思わず声を上げ、懐から取り出した懐中時計で時刻を確認している兄の袖を強く引いた。彼女の好奇心に輝く瞳は、斜め向かいの桟敷席へ向けられていた。「見て、あそこにいるのはデルフィーヌよ。まさかこんな場所で顔を合わせるはめになるなんて思ってもみなかった。彼女とはアミアンで同じ修道院だったの。いつの間にか人妻になって、まるで見違えるようだわ! あの頃の彼女を知っている人間の誰もが予想だにしていなかったはずよ、デルフィーヌが人並みの結婚をすることができるだなんて。いかんとも形容しがたい、人並み外れた醜い女なんですもの。特に鼻よ、見て、鼻がひどいの。まるで豚みたい」
 ジャン=マルクは年の離れた妹の横顔を盗み見た。扇で口元を隠しながらくすくすと笑うシャルロットはその物腰こそ女性らしい淑やかさ、柔和な動作を身につけているものの、少女らしい無邪気な面影に関しても十分残しているように思われた。彼は内心安堵しつつ、斜め向かいの桟敷に視線を移した。小太りの朗らかそうな女性が澄まし顔で談笑している姿が目に入ってきた。器量よしとまではいかないが、大袈裟にけなすほどの醜さではなかろう。「あとで挨拶に?」
 シャルロットは苦々しげに首を横に振った。「向こうは気がついていないみたいだし、下手に関わり合いになりたくないわ。それにあの顔を見ていると、アミアンにいた頃を思い出してぞっとするの。何度も繰り返すようだけど、あそこは本当に最悪だったわ。狭くて不潔で、それに加えて才女気取りの田舎者ばかり」
 女性を象った彫刻はギリシアの神々を模傚しており、それぞれ表情の異なる聡明そうな女神たちが劇場を取り囲むように、かつ一階席を見下ろす形で配置されていた。意志のない彫刻は観客たちを無意識のうちに別世界へといざなう役割を果たしており、悩ましげな表情を浮かべたアテネは官能的な肉体を惜し気もなくさらし、見る者を魅了した。揃いもそろって白い鬘をかぶった貴族の男たちはもどかしげな表情でもって劇場を包み込む彫像を見上げており、一階の平土間に陣取っている平民の男たちなどはそれこそあからさまに大理石の美女へ好色な視線を投げかける始末だった。鮮やかな色彩が目を引く天井画は楽園を模倣した安っぽい代物で、主張の強すぎるそれらの力作が芝居座に相応しいかと問われたならば、答えは“いいえ”だった。天井画以外にも派手な舞台装置や奇抜な室内灯などが一同に自己の存在を主張し合っているため、雑多感のあるマレー座はとうてい芸術的とは呼ぶことのできない空間であり、洒落者ぶった貴族たちはこれらをルイ十五世時代の遺産呼ばわりしたが、しかし舞台の質は良い。実直で理性的な市民たちは見かけ倒しの劇場よりも、それ以上に質の高い芝居座にこぞってつめかけるもので、当然その夜のマレー座も見事な満席となっていた。
 舞台上ではテノール歌手に扮した男優が流行のオペラを劣化させた代物を声高らかに歌い上げていた。見様見真似にしては本物の歌い手にも引けを取らない声量と貫禄に、平土間からはどっと歓声が沸き起こった。劇場内はこもったような熱気におかされ、少し蒸し暑かった。シャルロットは数日前に届いたばかりの扇でせわしなく風を生み出しながら、実のところ激しい睡魔と戦っていた。厳粛で規則正しい修道院の生活と享楽的なパリの生活とのあいだにはそもそも大幅な時差が存在する。加えて兄ほどの演劇好きでもないシャルロットにとって台詞ばかりの演目は、耳のみで楽しむことのできるオペラと比べれば格段に退屈な娯楽だった。
シャルロットは兄の膝を扇でつつくと、退屈しのぎにこう話し掛けた。「ねえ、わたしたちのような階級に属する女性でも歌手であったり、本物の女優になることは可能なのかしら」
 ジャン=マルクの視線は舞台の脇で出番を待つ、乳母役の若い女優に注がれていた。
「それは実に難しい問題だが、不可能ということはあるまい」
 観劇を妨げられたことに対しさして苛立つ素振りを見せることもなく、彼は静かに妹のほうへ向き直った。ジャン=マルクはそれがどれほど些細な疑問であろうと、何事も真剣に考え込んでしまう嫌いがあった。シャルロットはそんな兄の様子を楽しげに眺めていた。
「お前が実際に女優になるかならないかは別として、一般的に考えれば、まずは養成学校に通うべきなのだろうが、十七歳という年齢に達してしまっていては難しかろう。そうなると団員を募集している劇団に入り、そこで地道に経験を積んでいくか……あるいはオペラならば有名な歌手を家庭教師として雇うこともできる。大きな舞台に立ちたいのであれば、後者のほうが近道かもしれないね。器量も若さも、お前は女優になるにふさわしい素質を備えているのだから、あとは歌と演技が完璧ならばパリ中の人々を虜にする花形も夢じゃない」
 シャルロットは兄の言葉に耳を傾けながらも、乳母役を演じる娘の一挙一動を目で追い掛けていた。どうやら新人女優のようで、必要以上に胸元を開けた乳母が舞台にその姿を現した瞬間から常連客たちの双眼鏡が一斉に彼女のほうへ向けられたのがなによりの証拠だった。その娘の秀でた容姿に対する苛立ちを抑えながらも、彼女はジャン=マルクを横目で見遣った。「お兄様ったら、まさか本気で言っているのではないでしょうね?」
「本気もなにも、お前が尋ねたのだろう」
 不思議そうな表情を浮かべる兄が再び舞台へ視線を戻そうとしたときだった。
「水を差すようで申し訳ないが、個人的な見解を述べさせてもらっても構わないかな?」
 彼らは背後から発せられた声の主を確かめるべく、いぶかしげに半円形の扉に視線を移した。そこには一人の紳士が立っていた。
「女優などという職業はしょせん世の中の男どもを喜ばせるといった目的しか持ち得ない、はなはだいかがわしい職業だ。お世辞にも品のある仕事とはいえない」と、声の主は言ってのけた。「だからこそ良識ある女性は自ら進んで《女優》という客商売に従事しようとは、つゆいささかも考えないだろう。女優なんてものは秀でた容姿や蠱惑的な肉体で客を集めるという点だけで判断するとなれば、残念ながら二流娼婦と紙一重だ。考えてもみたまえ、この二つの職業の共通点を挙げるよりも、共通しない点を挙げるほうがずっと難しい。シャルロット、きみは女優に憧れを抱くほど愚かしくはないだろうね」
 うっすらと開かれた背後の扉から顔を覗かせた紳士はシャルロットに予想外の驚嘆を与えた。「まさかあなた、オリヴィエじゃないの」
 オリヴィエと呼ばれた大柄な紳士は体格にそぐわない身のこなしでするりと二階桟敷へ入り込んできた。彼はあっけにとられている旧友のジャン=マルクなど気にも留めず、その妹シルロットの肩を叩きながら親しげに笑って見せた。「すっかり大きくなって、見違えるようじゃないか。わたしはまたてっきりジャンのやつに新しい恋人ができたのかと、わが目を疑ったほどだ。だからこうして、三階席からわざわざ下りてきたわけなのだが……それがまさか、愛するシャルロット、きみだったとは! これほど嬉しい驚きはない」
「ええ、サマルス男爵、わたしもあなたとお会いできて嬉しく思います」
「他人行儀はよしてくれ、以前のようにオリヴィエで構わない。なんたってきみのことは、きみがお母上のお腹にいたころから知っているのだから」
 思いがけぬ友人との遭遇にあからさまな驚きをあらわにしていたジャン=マルクだったが、はっと我に返って目を細めた。「きみはどさくさに紛れて失礼なやつだな。ぼくは恋人となるべき理想の相手が見つかっていないだけで、これでも恋文を寄越してくる女性の数は少なくない」
「それは結構なことだ。で、理想のお相手は見つかりそうなのか?」
「厳選中だ」
 どこか憮然とした口調で答えるジャン=マルクに、シャルロットは笑いを堪えきれなかった。ここが観客席でなければ大声を上げて笑っていたところだ。
「その答えをマノンが聞いたら悲しむだろうな」
「どなたですの、そのマノンという女性は?」
「我々の友人でね、デュクレー男爵夫人の座を狙っている女性の一人だ。ただし彼女が他の女性と違うところは、その忍耐強さにある。彼女はジャンがそれという意思を示すまで、友人としての一線を越えるつもりはないと言っていた。可哀想なマノン、彼女はジャンのために貴族たちからの求婚を長いこと断り続けているのだ」
「ちょっと待ってくれ、彼女がクレシー公爵からの求婚を断った理由は、あの方があまりにもお年を召されているからだと本人は言っていたぞ」
「それも理由のひとつかもしれないが、彼女の本心は彼女にしか分かるまいよ」
 オリヴィエ・ブリュノ・ド・サマルス男爵はジャン=マルクの旧友であり、妹のシャルロットとも深い親交があった。シャルロットがまだ幼かった時分、世話好きな兄とオリヴィエの二人はデュクレー夫妻に頼み込んで、この愛くるしい妹の子守をみずから買って出たものだった。彼女とサマルス男爵が最後に言葉を交わしたのは数年前、シャルロットが修道院に送られる前日であったからして、足かけ五年ぶりの再会ということになる。彼らは舞台上で繰り広げられる喜劇そっちのけで久々の再会を喜び合った。つい一週間ほど前に修道院を出たばかりなのだとシャルロットが告げると、オリヴィエは目を輝かせながら問い掛けた。「ほう、それできみの夫となる男性はいつごろお迎えに来るんだ? 式の日取りは決まっているのだろう?」
「当初の予定では先月末に行われるはずだったのだが、先方の都合で来週に延期されることになったそうだ」
 間をあけずにジャン=マルクが答えると、猫のように鋭いオリヴィエの瞳が彼を捉らえた。「なんだい、お前も嫁入りをするのか? おれはシャルロットに尋ねたんだ」
 彼らは良い意味で、互いに遠慮のない仲だった。シャルロットは頬が引きつっている兄を横目に、笑いをかみ殺しながら答えた。「式は木曜日に行う予定だそうですわ。あなたのお宅にも今朝がた招待状を送ったと母が申していたのですけれど、まだお手元に届いていませんでしたかしら?」
「今日は一日中パレ・ロワイヤルにいたんだ。屋敷へ戻ったら確認しておくよ」
 サマルス男爵の風体はといえば自前の黒髪を一つに束ねており、加えて小ぶりの口ひげをたくわえていた。貴族にしては異色の風采であったが、それでも召し物だけは身分相応であり、着席用のゆったりしたキュロット、ウール地で仕立てられたフロックの袖口は金糸によって控え目な装飾がなされており、中に着ているチョッキは深みのある緑色だった。窮屈そうなフロックのあいだからはひとつひとつに円卓の騎士の描かれた、凝りに凝ったチョッキの釦が顔をのぞかせていた。サマルス男爵は口髭のせいで騎兵連隊の者に間違われることがしばしあったが、生まれの良さだけはその物腰ひとつ取っても十分に染みついていた。
「あのいたずら娘もとうとう嫁入りとは、時の流れをしみじみ実感させられる。結婚生活は楽しいぞ、シャルロット。わたしなど若いころは両親が結婚相手を見つけてくるたびに、さてどうやってそれらを破綻させてやるかという問題に関しては常に全力で取り組んでいたものだが……ああ、きみも知っての通り、わたしは聖職者から軍人への転向を余儀なくされたせいで、両親たちに対する不信はすさまじいものがあったからね。だがいまや、心から感謝の念を抱かずにはいられない。良く出来た妻を見つけてきてくれた、彼らに対してだ」オリヴィエはかれこれ長い付き合いとなる男友達の顔色を横目で確認し、その生真面目そうな顔立ちが見る見るうちに変化していく様を楽しげに観察していた。「きみの嫁ぎ先は、たしかキュルヴァル家の坊ちゃんだったね。まったく文句のつけようがないほど素晴らしいお相手じゃないか。彼は倹約家として知られているし、あの温厚な人柄といったら! 捨て余るほどの財産を好き勝手に使えることが、妻であるきみの特権になるのだから、わたしが女性であれば誰を差し置いても、真っ先にきみを嫉むだろう」
「わたしの妹を誑かすとただでは済まさないぞ、オリヴィエ」
 嫁入り前の妹をたぶらかされてはたまらない、と彼は焦った。たとえシャルロット本人にせがまれたとはいえ、嫁入り前の妹を夜遊びに連れ出してしまったことに対し、ジャン=マルクは若干の罪悪感を抱いていた。彼はせき立てるようにオリヴィエを扉の前まで追いつめると、この窮屈な個室から追い出してしまおうと躍起になった。「さあ、きみの席はどこだ。いいかげん自分の席へ戻りたまえ。ただでさえ狭いんだ、きみの巨体を受け入れる場所はないぞ」
「つくづく神経質な男だな。親しき仲にも礼儀あり、という言葉を知らないのか」
 オリヴィエは狭苦しい桟敷を退室する際、シャルロットを上から下まで値踏みするように眺めたのち、「ふむ」と小さく唸った。「わたしがもう少し若ければ、きみのような美人を放ってはおかないだろう。社交の手ほどきを受けたければ、いつでも屋敷へ遊びにきてくれ。わたしの妻とは会ったことがなかっただろう? 彼女をきみに紹介したい。あれは社交界でも顔が利くから、仲良くしておいて損はないはずだ」
「きっとお伺いいたしますわ」
 シャルロットが穏やかに答えると、オリヴィエは満足げに微笑んだ。「終演後にまた話そう、シャルロット」
「頼むから、もう二度とこないでくれ」
「固いことを言うなよ、シャルロットとは積もる話もあるんだ」
 友人が小部屋をあとにすると同時に、再び劇場が沸いた。舞台上では道化の衣装に身を包んだ男が、鼻歌交じりに上空から小舟で降りてきたところだった。奇抜な化粧が目を引いた。
 聴衆たちの笑声によって言葉を半分ほどかき消されながらも、シャルロットは兄の耳元に口を寄せた。「本当に驚いた。まさかこんなところでお会いできるなんて思ってもみなかったし、彼ってばちっとも変わっていらっしゃらないのですもの。お兄様とは大違いだわ」
「そうだろうとも、何とでも言うがいい。お前から見れば、どうせわたしなんぞただの年寄りにすぎないのだろうよ」
「何をおっしゃるの、お兄様、ほんの冗談よ、お気を悪くなさらないで」
「どうだか」
 ふてくされた兄をなだめながらも、シャルロットはそっと彼の肩にもたれ掛かった。「わたし眠くなってきたわ……」
 数十分後ようやく一幕が終了するも、それらは束の間の休息にすぎなかった。短い幕間に再びオリヴィエが姿を現したので、ジャン=マルクは思わず悲鳴をあげそうになった。
「やあ、きみたち」
「また来たのか!」
 うんざりした口調で叫ぶ兄の声に、本格的な睡魔に襲われ始めていたシャルロットはそっと瞼を開いた。ジャン=マルクは腹立たしげに続けた。「今度は何の用だ」
「何の用って、空いている椅子があったから持ってきたんだ」
「終演後に、とさっきは言っていただろう」
「細かいことは気にしてくれるな」
 人懐っこい無邪気な笑みを浮かべるオリヴィエの左手には、平戸間用の椅子が抱えられていた。


 終演後の広間は大混雑していた。おのおの満足げに席を立つ者や、上着の袖で涙を拭う者、退屈げにあくびをする者、不満げに床を踏みならして歩く者たちの姿も少なからず見受けられたが、彼らのうちの九割が、いまさっき初日を終えたばかりの新作舞台の批評をあれやこれやと述べ合いながら帰路に着くので、広間内は実にけたたましい空間と化していた。幅の狭い大階段は蟻のような人だかりでごった返しており、特に貴婦人たちの大袈裟なドレスは、最も余計な幅を取っているように思われた。
「それほどお髭が気になるのだったら、さっぱりと剃ってしまえばよろしいじゃありませんの」
 シャルロットは扇子で隠された口元の奥で小さなあくびをした。オリヴィエは手入れの行き届いた口髭を指先でいじりながらけだるそうに答えた。「妻にも同じことを言われたよ」
 周囲への迷惑もかえりみず、混み合う階段で立ち話をはじめた男女数人の群れをかき分けながら、三人は劇場に設置された、唯一の出入り口を目指していた。懐かしい思い出話や、シャルロットの修道院生活に関する話題もとっくに語り尽くしてしまった三人は、口数も少なく、ただ黙々と歩くのみだった。
 今夜の芝居は台本が悪かった……そんなことを考えながら大階段の最終段を下りきったジャン=マルクは、ふと前方に見覚えある女性のシルエットを見つけた。はて、誰だったろうか。彼は数秒ほど考え込んだが、答えはすぐに出た。
「シャルロット、あれはさっきの子じゃないか?」
 彼らの数歩先を歩いていたふくよかな女性は、例のデルフィーヌであった。気付いたシャルロットは、慌てて兄の口をふさぐ。「やめて、お兄様!」眠気が一気に吹き飛んでしまった。「彼女とは関わり合いになりたくないと言ったじゃないの」
 二人のやりとりに気づいたオリヴィエは右手を口元に添えたまま、いたって自然な流れで前方に目を向けた。彼の瞳は予期せぬ人物の姿をとらえた。端正な目元を鋭く細めたかと思えば、次の瞬間その両目がぱっと見開かれた。「アレクサンドレ……アレクサンドレじゃないか?」
 オリヴィエの発した間の抜けた声によって、前方を歩いていた細身の優男が不思議そうに背後を振り返った。「……サマルス男爵?」
 十分な確信を含んだ声色だった。優男が振り返った数秒後、続いて小太りの貴婦人がうしろを振り向いた。シャルロットとデルフィーヌの視線は見事にかち合い、シャルロットの脳裏には万事休すという言葉が浮かんだ。優男はデルフィーヌの腕を引き、颯爽と彼らの元へ歩み寄ってきた。オリヴィエの腕に肩を預けていたシャルロットはわずかに身構えた。目の前の紳士がデルフィーヌの腕を取って歩いていたことに気づいた彼女は、アレクサンドレと呼ばれた紳士がデルフィーヌの夫であるに違いないと確信した。
「知り合いなのかい?」
 ジャン=マルクは妹の心情など知る由もなく、呑気な顔でオリヴィエに尋ねるのだった。
「ああ、古い友人でね……何年振りだろう、アレクサンドレ!」
 オリヴィエと若き紳士は、改まった挨拶もなしに力強く抱き合った。シャルロットはといえば、例のデルフィーヌと極力視線を合わせないよう努めていた。望ましくない展開だ、と彼女は思った。オリヴィエは古い友人と二、三の言葉を交わしたのち、控え目に佇んでいたジャン=マルクとシャルロットのほうへ向き直った。
「きみたちにも紹介させてくれ、シャルロット、ジャン、こちらはシュミット子爵だ。アレクサンドレ・ド・シュミット子爵と、彼の細君であるシュミット子爵夫人デルフィーヌ。アレクサンドレはわたしの元部下であったのだが、いまではすっかり立場が逆転してしまった。剣においても人生においても、彼の華麗な立ち回りに敵う者はまずいないだろうと、わたしはこの場で断言することができるね」
「サマルス男爵、それでもあなたがわたしにとって人生の大先輩だということに変わりはありませんよ。あなたほどの世渡り上手を、わたしは他に知らないのですからね」シュミット子爵は朗らかに笑って見せた。「まさかこんな場所でお会いできるとは思ってもみませんでした。たまにはこうして、妻の誘いを素直に受けるのも悪くはないということでしょうか」
 青年と呼ぶには年を重ねすぎているシュミット子爵だったが、彼はシャルロットの瞳には古い伝承に出てくる騎士か王子のようにも映った。オリヴィエや兄のジャン=マルクと同様、シュミット子爵の笑顔は不思議な魅力を兼ね備えていた。
「アレクサンドレ、こちらはわたしの旧友であるジャン=マルク・ド・デュクレーと、その妹君であらせられるシャルロット嬢だ。彼らのご両親であるド・ヴィニー伯爵夫妻のことはきみもよく知っているだろう」
「もちろんです、あのご夫妻が催される夜会へは頻繁に足を運ばせていただいていますから。昨今あまり見掛けなくなった、貴族としての品格と深い教養を忘れることなく常にお持ちでいらっしゃる、わたしがパリで最も尊敬している方々です」
 シュミット子爵はシャルロットの白い右手を奪うと、惜しげもない笑みを彼女に向けた。「お会いできて光栄です、お嬢さん」
 手の甲に口づけられ、シャルロットの顔はわずかに赤らんだ。修道院では異性との交流が禁止されていたため、当然といえば当然の反応であった。魅力に溢れた紳士は、この少女の反応に対して満足そうに笑うと、あらためて兄のジャン=マルクに向き直った。「デュクレーさん、お噂はかねがね伺っています」
 彼らはいささか形式張った挨拶を簡単に済ませてから、普段のくだけた口調で会話を始めた。
「わたしの噂を? それはまた、どういったお噂でしょうか。この男ときたらわたしに関して、あることないこと吹聴して回っていると聞きましたが……」
「愚かしい真似は止すんだ、ジャン」
 三人の紳士たちが親しげに話し込んでいるあいだにも、デルフィーヌはそわそわとした様子でシャルロットを見つめていた。シャルロットはなるべく視線を合わせないように努めてはいたが、さすがにここまできたら、言葉を交わさないわけにもいかなかった。彼女は諦めて、小太りの新妻と向かい合うことにした。
「わたしを覚えていらっしゃる?」
 シャルロットはどこか落ち着かない様子で問い掛けた。
「もちろんよ、シャルロット!」デルフィーヌは感動的に叫んだ。「あなたは気づいていなかったようだけれど、わたしたちはあなた方の向かいに座っていたの。わたしはね、シャルロット、すぐに気がついたわ。あなたの華やかな容姿はとても目立つから、遠目でもはっきり見分けることができるのよ。もっとも、最初は我が目を疑ってしまったわ。だって本当に、偶然としか言いようがないと思わない? わたしたちのどちらか一方が一階に座っていたとしたら、今頃は二人とも馬車に揺られていたに違いないもの」
 大袈裟な感動をあらわにするデルフィーヌは、修道院にいたころとはまた違った印象をシャルロットに植えつけた。朝のミサで時おり言葉を交わした際の彼女は敬謙で信心深い、控え目で生真面目な少女という印象であったが、目の前で口早に台詞をまくし立てるシュミット子爵夫人は陽気で社交的な貴婦人のように思われた。デルフィーヌは人目もはばからずシャルロットを抱擁した。
「これって幸せなことだわ。ねえ、だってそうでしょう。同じ修道院に入っていたお友達とはわたしそれっきり交流もなくて、彼女たちが今なにをしているのかもさっぱりわからないの。でもパリという都の、この小さな劇場で、またこうして古いお友達に再会できたことは一種の運命か、奇跡にも近いと思うわ」
「ええ、デルフィーヌ、あなたとはそれほど親しいお付き合いをしていたわけではなかったけれど、今夜こうして再会できたことを嬉しく思うわ」彼女たちはもう一度、お互いをしっかりと抱擁しあった。シャルロットは言葉を続ける。「実はわたし、修道院を出たばかりなの。先週の水曜日のことよ。だからシュミット子爵夫人、わたしパリにまだ一人もお友達がいなくて心細かったわ。だけどもう平気ね、あなたと再会できたから」
 デルフィーヌはこそばゆそうに笑って見せた。「もしあなたさえよければ、わたしたちはこれからも連絡を取り合っていったらいいと思うのだけれど、どうかしら? わたしたちは同じ街に住んでいるのだから、つらいことがあってもすぐに相談に乗れるでしょうし、悩みだって分かち合うことができるわ。お互いに慰め合ったりもできるし、楽しいことも共有できるはずよ」
「ああ、絶対にそうするべきだわ」堅苦しい修道院生活をおえたばかりの年若い娘は、途端にはっとした表情でデルフィーヌの両手を取った。シャルロットはまるで役者にでもなったかのような気分だった。「いまだったらわたしたち、きっとお互い無二の親友になれると思うもの」
「ご婦人方の親密な友情は目下、流行の最先端のようですからね」
 シュミット子爵は背丈の低い妻の腰を抱きながら、二人の会話に口を挟んできた。「しかしデルフィーヌ、ポリニャック公爵夫人のようなあやしい噂が立たない程度にしてくれないと困るよ。ご婦人方の噂好きは大変結構だが、噂の種になるのはいただけない」
「もちろんですわ」
 デルフィーヌは夫の友人オリヴィエと、そのまた友人のジャン=マルクからの口付けを右手に受けると、善良そうな微笑みを浮かべながら軽く会釈してみせた。社交慣れした子爵夫人の自然な動作をじっと見つめていたシャルロットは、古い友人の姿に未来の自分を重ねてみることにした。悪くない、と彼女は思った。デルフィーヌに限らず、周囲で談笑するほかの貴婦人たちの動作に関してもシャルロットは密かに観察していた。今後の新しい生活で役立てられそうな仕草、振る舞いはひとつの取りこぼしもなく頭に焼き付けておきたかった。退屈そうにしている妹を見兼ねた兄のジャン=マルクがせっかく両親に内緒で芝居鑑賞に連れ出してくれたのだから、彼女はひとつでも多くのことを学んで帰りたかった。
 夫の友人たちに挨拶をしおえた小太りのシュミット子爵夫人は再びシャルロットに向き直った。「正直に話してしまうと、パリで心細さを感じているのはあなただけじゃなくて、わたしも同じなのよ」
 シャルロットは来週行われる披露宴の招待状を、明日にでもシュミット子爵夫妻の屋敷へ届けることを約束した。二人の女たちはいくらかの歳月を経て、ひょんなことから友情の絆を深めたのだった。
「彼女、変わったわ」
 帰路の馬車に揺られながら、シャルロットは先ほどから思いつめていた事柄をジャン=マルクに打ち明けた。「お嫁に行ったせいかしら? アミアンにいた頃とはまるで別人のようで、少し驚いてしまったわ。初めてデルフィーヌと言葉を交わしたときなんて、彼女はそれこそ無愛想で泥臭い田舎貴族としか思えないような女だったのよ。たしかに修道院は笑顔ひとつに対してもきつくお咎めを受けるような場所だけれど、それでも彼女ほど笑わない子は他にいなかったわ。……お兄様は、わたしもデルフィーヌのように変わってしまうとお思いになる?」
 妹の真剣な眼差しに、ジャン=マルクは困り果てた表情を浮かべた。「いまの環境が、彼女にとって良い変化をもたらしたのではないかな。幸せな環境はいつだって人の心を豊かにしてくれるものだからね」
 彼の返答はシャルロットの問いに対し、十分な回答を与えてはくれなかった。


 シャルロットの夫となるアルビン・キュルヴァル氏がハンガリーからパリへ戻ったのは婚礼の前日だった。彼は自分の妻となる女性の肖像画を事前に受け取っていたので、その晩は胸を高鳴らせて寝台にもぐりこんだ。これまで美しい娘とは無縁であったキュルヴァル氏にとって、シャルロットは神話の世界から飛び出してきた女神か天使のようにも感じられ、自分の一生を捧げても妻を幸せにし、また愛していこうと心に誓っていた。
 彼の妻となるシャルロットもまた同様だった。寝室の入口まで彼女を見送ってくれたジャン=マルクに挨拶をし、浮き立つ気持ちを抑えながらも軽快な足取りで寝台へ歩み寄った。シャルロットは角灯の火を息で吹き消しながら、誰に言うともなしに呟いた。
「まだ実感はわかないけれど……」
 まだ見ぬ夫の姿を脳裏に浮かべながら寝台へ横たわり、輝くような月明かりを額に受けながら翌日の光景を瞼に思い描いた。デルフィーヌの夫であるシュミット子爵は稀に見る美男子だった。自分の夫となる男性が、あのデルフィーヌの夫よりも劣った人物であるはずがない。それにシャルロットは修道院を出てから数ヶ月になるが、キュルヴァル氏にまつわる悪評は一度たりとも耳にしたことがなかった。少なくともこの晩のシャルロットは自分の夫こそパリでもっとも優れた人物に違いないと、そう確信していた。シャルロットは期待に胸を膨らませ、朝がやってくるのを待った。
 が、期待が大きければ大きいほど、それが裏切られたときの落胆はより深いものとなる。アルビン・キュルヴァルと対面した際の彼女は、まるで魂がすっかり抜けきってしまった蝋人形のようだった。てっきり下男かと勘違いした小肥りの男こそが、なんと彼女の夫となるべき相手であった。
「アルビン・キュルヴァルと申します」
キュルヴァル氏ははにかんだような笑みを浮かべると、自分の妻となる女性の繊細な右手におそるおそる口づけた。「お噂で聞き及んだ通りの方なのですね」
 シャルロットの落胆は激しかった。何事においても、第一印象は重要である。裕福な銀行家――これは紛うことなき事実であったが――とは到底思えない、どこからどう判断を試みようとも、ぱっとしない貧乏詩人としか思えないアルビン・キュルヴァルの風体は、来賓貴族たちの嘲笑の的だった。キュルヴァル氏にとってこの日は一世一大の晴れ舞台であったからして、変に気合いを入れてしまったのが裏目に出たようである。彼は人柄に関して言えば善良そのものであったが、元来体面を重んじるシャルロットにとって、キュルヴァル氏の容姿はこれ以上ないほどの軽蔑に値した。すなわち婚礼当日のキュルヴァル氏の珍妙な風体は今後長きに渡って、夫に対してシャルロットが抱く印象の大部分を占めることになり、彼女の記憶にしっかりと焼きついて、生涯離れることはなかった。
 彼女は神に対し、その日初めて悪意ある罵りの言葉を吐いた。堕落しきった修道士たちに誘惑の言葉を囁かれたときも、断固としてそれらを跳ね退け純潔を貫いてきたし、数年間におよぶ修道院の生活にも耐え忍んできた。不本意ながら日に数時間の祈りをあげてきたし、聖書の暗記をはじめとした義務にも、不平不満こそ胸に抱きつつも、口に出して異論を唱えたことは一度たりともなかった。にも関わらず、なにゆえ自分がこれほどまでに不当な仕打ちを受けなければならないのか?
「優しそうな方じゃない。あなたの落胆はわたしにとってちっとも理解ができないことだわ。アレクサンドレは容姿こそすぐれているけれど、浪費家だし不真面目、不信心な男性よ。人は見た目だけで判断するべきではないと、ルッキーニ修道士もおっしゃっていたじゃない。それにわたしたちは幸せよ。お年をめされたご老人の元へ嫁がされる娘さんも多いというのに、わたしたちの夫はまだ若いではないの。これって幸運なことだわ」
「年寄りのほうがずっと良かったわ」
 自由のない修道院生活は、元より傲慢で頑固だったシャルロットに対し、さらに陰険さという性質を植えつけていた。友人の慰めにも何ら価値を見出だすことはできず、もはや最高の皮肉にしか聞こえなかった。





back    home    next