「イザベルとエドガーは?」
「イザベルは母性本能が強いから、子供を産みたいって気持ちが強かったんだろう。おれは彼女が以前から子供を欲しがっていたことを知っていた、結婚相手を探していたことも」
「へえ、彼女が? 意外だな」
「お前は知らないかもしれないけど、あいつは案外ちゃっかりしているんだ。イザベルが生徒の親たちにお見合い相手を探してきてもらっていたこと、知っていたか? 知らないだろ?」
「初耳だ」
「だろうとも」
 今夜のエミールは随分と饒舌だ、などと考えながらヴェルヌイユは友人のグラスにワインを注ぎ足した。が、次に続く言葉はヴェルヌイユを大いに驚かせるものだった。
「イザベルのやつ、お前のことが好きなんだとばかり思っていたら、ちゃっかりエドガーと婚約しやがって。したたかなやつだよ。おれたちに隠れて、二人でこっそりと愛を深め合っていたんだ。そりゃ祝福はしてやるけど、あまり良い気分じゃない。あの女ときたら、純粋なエドガーを誑かして――」
「ちょっと待て、馬鹿を言うな。イザベルはおれのことをいまだに十歳かそこいらの子供だと思ってるんだぞ。彼女がおれを好きだって?」
「彼女の職業は?」
「……ピアニスト?」
「音楽の先生だよ、子供向けの。彼女は子供が好きなんだ。子供っぽい大人もね。つまり、お前みたいな坊やさ」エミールは酒臭い息を吐き出しながら語った。早くも酔いが回っているようだった。「本人の口から聞いたわけじゃないが、態度を見ていれば分かる。彼女とはエドガー以上に長い付き合いなんだ。少なくとも最初のころ、彼女はエドガーじゃなくお前に惚れていたよ。脈がないことに気付いて諦めたみたいだけど……」
「どうしておれにそんな話を? しかもいま、こんな時期に」
「悪かった、いまのは忘れてくれ」
 エミールは肩を落とした。聞いてはいけない話を聞いてしまったような気がしたので、ヴェルヌイユは深く追求することを避けた。友人の独白はなおも続いた。
「心にぽっかりと穴が開いたような気分なんだ。二人を祝福したい気持ちはある。だけど、自分だけが置いてきぼりにされてしまったような寂しさがどうしても拭えない」
「そう寂しがるなよ、二人が結婚したところであいつらがきみの親友であることに変わりはないんだから。ほら、もっと飲んで。可哀想だから今夜はおれが支払うよ、給料が出たばかりだし」
「お前は本当にいい奴だな」
 エミールは生牡蠣にレモンを絞っていた手を休め、自分の知らぬ間に大きく成長していたヴェルヌイユを感慨深げに見上げた。「でもいちばん高いシャンパンを注文したら怒るんだろ?」
「もしもおれの手持ちが足りなくなって、きみが残りを支払ってくれるっていうなら、好きにしてくれ」
「いいや、冗談だよ」
 ヴェルヌイユはポケットから取り出したハンカチをそっと彼に差し出した。手がレモンの汁でべとべとになっているのを見兼ねてのことだったが、エミールはそれを自分の目尻に持っていった。涙を拭くためのものと勘違いしたようだった。彼は続けた。
「お前にとってエドガーは兄貴でしかないんだろうけど、おれにとってのエドガーは、お前にとっての彼とはまた少し違うんだ。ほら、たいていの人間は家庭内での顔と外で見せる顔、この二つを持っているだろう。おれは後者こそがその人の本当の姿だと思っているんだ。その人がこうありたい、と望んだ姿が“それ”なわけだからね。ただ、彼らがいままでの姿を捨てて、あるときを境にまったく別の人間になってしまうことがある。就職、結婚、出産……人生の節目に際して、これまでとはまるで人格が変わってしまう奴っているだろ? おれはエドガーやイザベルもそうなってしまうんじゃないかと不安でたまらないんだ」