帰宅したものの、病人はいまもって目を覚ましていないようだった。ヴェルヌイユは寝台に腰掛けると異常な量の汗で枕を濡らす青年の額をタオルで拭ってやり、次にその額や頬に手を当て、体温を確かめた。火照った頬を見ても明らかであるようにやはり熱はまだ下がっておらず、それどころかどんどん上昇していた。が、この様子であれば今夜が峠といったところで、早ければ明日の夜には標準的な体温を取り戻すだろうと彼は思った。今朝の時点で死者の国に片足を踏み入れていた病人は、若さゆえの回復力であろうか、安心しきったような表情で控え目な寝息を立て眠っていた。いまここに横たわっている彼がイザベルであったなら、とヴェルヌイユは青年の輪郭を指先でなぞった。時折夢に出てくるイザベルはあいかわらず思慮深く謹直な面持ちでピアノの椅子に腰掛けており、しかしヴェルヌイユが他愛のない日常の話を冗談交じりに話し始めると気難しい顔つきを一変させ、その年頃の女性にしては落ち着いた柔らかな表情で彼の熱心なお喋りに耳を傾けるのである。夢のなかのイザベルが彼にとって唯一の話し相手であり、この世界でたった一人の味方なのだった。
 体の弱い息子の遊び相手として四歳の誕生日に両親が買い与えてくれた、かつてヴェルヌイユがなにより大切に思っていた愛犬トマがソファで冷たくなっていた、忘れもしない数十年前のあの日、彼の嘆きを共有してくれる者は誰ひとりとしていなかった。兄や妹、両親たちはヴェルヌイユにとって掛け替えのない家族の一員であったトマのことなど気にも留めず、翌日に控えていたイタリア旅行の準備に心血を注ぐばかりだった。当時、自宅で子供向けの音楽教室を開いていたイザベル・ナビエはこれまで一度もヴァイオリンの稽古をほったらかしにしたことのなかった教え子がいつまで経ってもやってこないという状況を案じ、何の連絡もなしにレッスンを休んだ彼の自宅へわざわざ様子を見にやってきた。彼女は泣き腫らした目を隠すかのように始終俯いているヴェルヌイユの代わりに庭先の一角をスコップで掘り、そこにトマを埋葬するよう促した。灰色の空の下、息をすることなく静かに眠った親友を腕に抱いたヴェルヌイユは初めのうちこそ彼女の勧めを断固拒絶していたが、誰しもに訪れる死という事実を受け入れられぬほど子供ではなかった。数時間後、日が沈むか沈まないかという頃になって、少年はようやく弱々しげにトマへ別れの言葉を囁いた。小さな親友が大好きだったボールや干し肉とともに、彼がこれ以上の寒さを感じないようにと柔らかな膝掛けでしっかり亡骸を覆い、そうしてヴェルヌイユはさめざめと友を土に葬った。
「どうしてきみが泣いてるの、イザベル」
 ふと後ろを振り向くと、そこには静かに涙を流すイザベルの姿があった。ヴェルヌイユが理由を尋ねれば、彼女は自分も五年前、物心ついて以来ずっと共に暮らしてきた愛猫を失ったのだと答えた。「悲しみに暮れている孫を目の前にして祖母は”所詮猫なんだから仕方がない”って、ひどいことを言ったわ。そう易々と割り切れるものじゃないのに」
 彼女の涙がたとえトマに向けられているものではなかったとしても、孤独にあった少年の悲しみはいくらか緩和された。受け入れがたい現実に打ちのめされているときというのは下手な慰めの言葉よりも、ほんの幾許か相手が抱いてくれる共感のほうがはるかに心落ち着かせてくれるものだ。イザベルの瞳が湛えていた物悲しさが単にうわべだけの体裁でないことを悟った彼は、出来うるかぎり堪えんとしていた感情の糸がふいに途切れ、数々の思いが堰を切って溢れ出した。ヴェルヌイユは赤子のような叫び声を上げ、彼女の胸のなかで咽び泣いた。