トマを失って以来、ヴェルヌイユは冷淡な家族らと距離を置くようになったが、反面イザベル・ナビエにはこれまで以上に心を開き、よりいっそうの尊敬と恩愛の念をもって接するようになった。表面的には明朗かつ社交的であっても、自分以外の人間に対してそもそも興味を抱くことのなかったヴェルヌイユにとって、イザベルという人生の先輩からは楽器に限らず、なにかと学ばせられる部分が多かった。常に話し手であったヴェルヌイユが相手の意見にも耳を傾けながら談義を楽しむようになったのも、ちょうどこのころからだった。彼女とお喋りに興じるためだけに通っていたヴァイオリンの稽古事も以前の彼からは想像もつかぬほど真摯な態度で取り組むようになり、当のイザベルを大いに驚かせたものだった。以後、その幼い演奏家に惚れ込んだイザベルの親類、ジャックが経営する酒場にて小遣い稼ぎをするヴェルヌイユの姿をしばし確認できるようになるほど、彼はめきめきとヴァイオリンの腕を上げていった。だがヴェルヌイユは自分自身の前途をヴァイオリン一本に託せるほど楽観的な性格ではなかったし、むしろイザベルという師を間近に見てきた彼はなにかにつけて自信を失うばかりだったので、そんな自分に音楽学校への進学を勧める者たちの神経を彼はとうてい理解出来かねた。とはいえ、ヴェルヌイユにとって音楽とは単なる嗜みに過ぎなかったというのも理由のひとつではあった。つまり劇場、映画館、ブティック、酒場などに足を運んで気晴らしをする者がいるのと同様ヴァイオリンは彼の心をもっとも充たし、楽しませてくれたのだった。
 かような具合にヴェルヌイユが心身ともに大きく成長を遂げた頃、彼よりも八歳上の兄エドガーとイザベルが卒然として婚約を発表した。彼らが全幅の信頼を置くエミールを始めとした付き合いの長い友人たち、学生時代の同級生などが集まっている席での報告だったこともあり、二人には温かい拍手と祝福の言葉が次々に向けられたとのことだった。年齢の近い二人がお互いに意識し合っているらしいことにはバカロレア試験を目前に控えていたヴェルヌイユも薄々気がついていたので、両者の婚約に際しては素直に祝福の意を示したものだった。