「ご機嫌いかが、フランソワ?」
 重傷人への応急処置を終えたヴェルヌイユは、さて普段となんら変わり映えのしない退屈な時間割に沿って一日を過ごすかと思われたが、午後三時を回った頃になってこの近辺一帯を取り仕切る地主の娘、ファニー・デプレットがひょっこり訪れたものだから、彼は柄にもなく慌てた様子で少女を家から連れ出した。
「学校で配られたトマトの苗が実を付けたから、今日はそのお裾分けに来てあげたわ。見て、形はちょっと不格好だけど、きれいな色でしょう。味はあたしが保証するわ、甘くて美味しいのよ」
 ほんの一ヵ月ほど前に十一歳の誕生日を迎えたばかりのファニーはめずらしく自分の相手をしてくれるヴェルヌイユをいくらか不審に思ったが、この口数の少ない神秘的な青年が自ら散歩に誘ってきてくれたことにすっかり気を良くしていた少女はそんなものおよそ取るに足らない猜疑であると結論づけた。移り気でお喋りなファニーは都会からやってきた物静かで謎めいた雰囲気を持つヴェルヌイユを一目で気に入ったものだった。そして現在は父親の目を掻い潜り、ヴェルヌイユが買い取った小さな一軒家に幾度となく足を運んでは、日々ほんの少しずつでも彼との距離を縮めるべく奮闘していた。地下室の貯蔵庫を確認し、肉や野菜が残りわずかになっているようであれば自宅の畑や厨房から新鮮な食材をくすね、ファニーは彼の目に留まりやすい場所、たとえば玄関先や流し台に置いておくのだった。ヴェルヌイユは周囲をうろちょろして回るこの少女のことをお節介とは感じながらもとりわけ拒絶したり、追い払ったりはしなかった。ファニーの存在は彼の平穏な生活にさしたる変化や影響力を持たなかったし、つまりは取るに足らない存在に過ぎなかった。年齢の割に大人びた言動をするファニーに容易く心を開くほどの純粋さなど彼はとうに失っていたし、ヴェルヌイユはこの世のありとあらゆるものに対してある種の疎ましさを覚えていた。奇跡にも等しい偶然と、それに最も適した時機とが重ならなければ、いまの彼はまともに口を開くことさえしなかっただろう。
「あなたが散歩に誘ってくれるなんて、変わったこともあるものね。明日は雨が降るのかしら? ねえ、どういう風の吹き回しなの?」
 そんな寡黙で無愛想なヴェルヌイユが自分を散歩に誘ってきたのだ、舞い上がらないほうがおかしかった。ファニーは毎朝欠かさず鏡の前で練習している、彼女が自らをもっとも魅力的に見せたいときに浮かべるあの愛らしい笑みを満面に湛えた。「あたし雨は嫌いだけれど、あなたが家まで送り届けてくれるのなら、毎日雨が降ったって構わないくらいだわ。それとも、なにかいいことでもあった?」
「ないさ、なにも」
 彼女があと五年ほど早くに生を受けていたなら、この残酷な現実はまた違う様相を見せていたかもしれない。いくら大人びていると言ってもファニーは経験不足の著しい、所詮思慮の浅い子供に過ぎなかった。ファニーの輝くような愛らしい笑みがヴェルヌイユの傷を癒すことはなかった。
 ヴェルヌイユはなにやら一方的に捲し立てるばかりのファニーを彼の自宅から約三キロほど離れた場所にある美しい屋敷の手前まで送り届けた。それまではよく舌が回り楽しげであった表情から一転し、別れ際のファニーはたいてい不機嫌さを隠そうともせず、どこか腹立たしげであるのが常だった。それじゃまた、と彼女は切れの悪いくぐもった声で小さく言うと、それから先は一度も後ろを振り返ることなく、のろのろと重い足取りで帰っていくのだった。
 少女が鬱々とした蔦に覆われた門をくぐったことを確認すると、ヴェルヌイユはめずらしく陽気なシャンソンなどを口ずさみながら帰路についた。新芽が生き生きと風に遊ぶ季節を過ぎ、日照時間は初夏に向かって少しずつ延びてきていた。冬のあいだは持病の喘息に悩まされていたものだったが、近頃は眩暈に襲われることも少なくなり、発作の頻度はだいぶ減った。この日は過ごしやすい気温に加えすこぶる良い天気であったので、昼間のうちに洗濯しておいた青年の衣服や替えのシーツなどはもうすっかり乾いていることだろうと彼は思った。