- Prologue -

 いつもと変わらない食卓の風景だった。夫婦ふたりで囲むには適当と思われる大きさの食卓机は樫で作られており、そこには葡萄酒のたっぷり注がれたグラスが一対、じゃがいもと野菜の添えられた鶏肉のロースト、数粒のオリーブと乾燥したトマト、まずしい労働者たちが日々手に入らないと嘆いた末にとうとうヴェルサイユへの歴史的行進にまで発展させるにいたらしめた革命の根元とも呼ぶべきパンが並べられていた。品揃えは多くないが、少なくもなかった。数種類の木の実が練り込まれたパンは食欲をそそる香ばしい匂いを居間にまきちらしていた。
 シャルロット・マリー=アントワーヌ・キュルヴァルはそれらをさりげなく確認し、いつもの見慣れた風景から少しの変化も認められないという予想通りの結論にたどりついた。黄ばみの目立つ中国趣味のテーブル掛けには金と青を基調とした花柄模様があしらわれていたが、しかしほつれてしまった刺繍糸がところどころ汚らしく飛び出ていた。元が国王の食卓で使用されていたとしても何ら見劣りしないほどの名品であっただけに、現在のありさまには哀れを覚えずにいられなかった。糸といえば、この手芸とは無縁の奥方は数ヶ月前、同じくほつれかけた夜会服の袖口の糸を好奇心から引っ張ってみたことがあった。すると複雑に絡み合っているに違いないと思っていた絹糸はあっという間にするすると抜け落ちてしまい、彼女はそれ以来、ほつれた糸を見ても手を出さないよう気をつけていた。ちょっとした出来心で行なったほんの些細な行為が、思わぬ結果を招く。彼女は掌の上で小さく丸まった惨めったらしい糸屑にこの世の縮図を見出した。
 シャルロットは安っぽい肘掛け椅子にそっと腰を落ち着けた。長年に渡って彼女の椅子を引いてくれていた給仕係は一年ほど前に屋敷を去ってしまった。ああ、世界は常にめまぐるしく変化しているというのに、我が家ときたら日常のささやかな変化ひとつ存在しないではないか、と彼女は思った。揚げ句の果ては夫である。だらしのない脂肪に包まれた夫はまるで生きた酒樽だった。
 今日はブルネルに会ってきたんだ、と彼女の夫であるアルビン・キュルヴァルは大皿に盛られた肉を素手で掴みあげると、そうした振る舞いが男らしいとでも勘違いしているのか、ろくに噛みもせずぺろりと平らげてしまった。彼はペール・デュシェーヌ紙の二面を広げながら、少しの生産性もない無駄話をたらたらと連ね始めるのだった。「新しい商売が上手く軌道に乗ったそうで、経営はすこぶる順調らしい。有能な秘書を世話してくれたシャルロットには心から感謝している、と伝えるよう頼まれた。機会があればぜひまた晩餐を、とも言っていたな。まったく羨ましい話じゃないか、我々ときたら貧相な食卓を囲んで慎ましい夕食だというのに……アラスに別荘を買ったと散々自慢されたんだ。よくやるよ、こんな時期に新しい工場と別荘だなんて、正気の沙汰じゃない。資金にしたって、いったいどこから調達してきたのやら」
 正面に腰掛けているアルビンが広げる新聞の一面の文字がシャルロットの視界に入ってきた。ペール・デュシェーヌ紙の記事はいつだってお決まりの《なんてこった》、あるいは《ちくしょう!》という罵詈から始まるのであるが、どうやら今号においては前者の台詞が使用されているようだった。彼女はソースで汚れた口元をナプキンで拭いながら無愛想に相槌を打った。「出資者がいるのでしょう、あの方はロンドンにご親戚がいらっしゃるそうですから。たしか第二身分の血縁者ではなかったかしら? 急進派を支持するブルネルさんの後援者がよりにもよって貴族だなんて、密告したらさぞ面白いことになりますわ」
「まさか」アルビンは眉をひそめた。「そんな話は聞いたことがない」
「わたしも詳しくは存じませんけれど、ブルネルさんはプロテスタントじゃありませんでしたこと?」
「そうなのか?」
「どうだったかしら、もしかするとあなたの別のご友人だったかもしれませんけれど」
 いかにも興味がないといった素振りで葡萄酒を口に含むシャルロットは、夫と結婚して以来続いているこの無意味なやり取りにほとほと嫌気がさしていた。彼女は夫が手にしていた新聞に目を向けて言った。「その新聞、読み終えたら貸していただけます?」
「いや、もう読み終わったところだ」アルビンはもごもごと言った。「しかし何度も言うようだが、きみ、この新聞は女性が読むに相応しい内容ではないように思う。ぼくの寝室に置いてあるメルキュール・ド・フランス紙できみが満足してくれたなら、それこそぼくとしては大変ありがたいのだが……」
「冗談はおやめになって。あの新聞は退屈な記事ばかりですわ」
 アルビンは妻が政治に興味を持つことを快く思っていなかったが、決然とした態度で頼まれてしまっては断れないのがこの気弱な夫の性分だった。
「わかった、わかったよ」
 彼は昼過ぎから降り始めた雨に濡れたせいで一面の文字が滲んでしまっている新聞をシャルロットに手渡した。ペール・デュシェーヌ紙は民衆の指導者と呼ばれるジャック・ルネ・エベールが発行する政治新聞であり、過激な革命思想を説くエベールは中流階級の市民よりも労働者階級、とりわけ貧困層からの支持を多く集めていた。この新聞は彼女が特に贔屓している新聞のひとつだった。家庭を守るというまったく面白味のない使命を仰せつかった女性たちは、いつの時代においても気が滅入るような退屈な時間を持て余しているものである。数年前までのシャルロットならばいざ知らず、いまや政治が彼女のお気に入りの娯楽となっていた。旧体制時代とは異なり、毎日のように新たな情報が耳に入ってくるという現在の状況はシャルロットを退屈させなかった。
 手持ちぶさたになったアルビンはひとまず胃の中を満たしてしまおうと大皿に手を伸ばし、料理の上手い女中を雇えるだけの蓄えをまだかろうじて残している幸せをかみしめながら熱心に顎を動かした。この世でもっとも喜びを感じることのできる瞬間、それは美味い料理を心ゆくまで堪能しているとき以外にありえないと彼は確信していた。ウェヌスと見紛う世界一の美女と褥を共にしたとしても、食欲は満たされまい。生きることは、食べることである。どこまでも快楽を追い求める貴族たちとは相反し、資産家といえどもれっきとした第三身分の出身であるアルビンは《食》という、すべての人間にとってもっとも身近であろう存在に至福を見出していた。
「食べないのかい? どこか体の具合でも?」
 彼は食の進んでいない妻に気づき、心配そうに尋ねた。
「この鶏肉の味つけは薄すぎて、わたしの口には合わないのです」
 窓の外に退屈げな視線を向け、シャルロットは心にもない答えを返した。余計なところは察しが良いにも関わらず、こちらが本当に気づいて欲しいと願っている事柄についてはまるでもって鈍感な夫にはつくづく呆れるばかりだった。
「食べないのならぼくがもらおう。シャルロット、お皿をこっちに」
「いやですわ、はしたない」
「平気さ、どうせ誰も見ちゃいないんだ」
「いいえ、見過ごせません。あなたは心まで貧しくなられたんですの? なんと嘆かわしい。あなたのお母様が生きていらしたら、きっとわたしと同じことをおっしゃったはずですわ」
「きみはこのところ、事あるごとに母上を引き合いに出してくるな」
 程近いカルチェ・ラタンの夜の賑わいが初夏の涼しい空気を通じて伝わってきた。今宵も正義と祖国愛に燃える男たちが声を荒げて政治議論に熱を入れているのだろう、とシャルロットは思った。セーヌを挟んだ右岸に位置するパレ・ロワイヤルも同様の物騒がしさに違いない。いくつかの通りを挟んだ向こうに望めるサンジェルマン・デ・プレ教会からは松明の炎のゆらめきを確認することができた。かの教会は去る一七八九年の暴動によって、その歴史ある建物の半分ほどが怒れる市民たちの手によって破壊されてしまった。修復作業が行われる気配はなく、いまや浮浪者や家なし子が住み着いているありさまだった。
「味付けが薄いようには思えないが……」
 出された料理に文句ひとつ付けたことのないアルビンは妻の不満に首を傾げながらもたったいま、薄味のローストを平らげたところだった。彼は満足げなため息とともに腹部を撫でさすったのち、部屋の隅に位置する小机にちらりと視線を走らせた。
「ところで、あの金は?」と、この肥満体型の夫はずっと気になっていた疑点を口にした。「きみの貯金を下ろしてきたのかは知らないが、手癖の悪い女中が持ち逃げしないとも限らない。あんなところに置いておくのは不用心じゃないか」
 元々花瓶を乗せるために用意された年代物の机の上には、麻の巾着が忘れられたかのように置かれていた。取引先から帰宅して早々に居間へとやってきたアルビンはそれを手に取ったとき、妻の軽率さに苛立ちを隠せなかった。巾着の中にはエキュ銀貨が数十枚という大金が入っていたのである。
 しかし珍しく自分を咎めるような小言を夫から頂戴したところで、シャルロットは少しも動じることなく弁解するのだった。「貯金を下ろしたのではなく、服を何着か売ったのですわ」
 アルビンは悪びれた風もなく言ってのけた妻を凝視した。
「売った? きみの自慢のドレスを?」
 流行りの装いを追い求めることを生き甲斐としている妻が手持ちの衣服を手放さなければならないほどに家計が切迫していたとは、まったくもって思いも寄らなかったという表情だった。
 三代に渡る銀行および製糸工場の経営で莫大な富を築いたキュルヴァル家だったが、忌まわしくも八十九年を封切りにフランス全土へと広がった大革命の影響を受けたことによって、その経営状況はいちじるしく悪化していた。亡命貴族たちは銀行に預けていた財産をしっかり下ろしてから国外へ向かうか、またそうでない者にしても資産を持ち出すためにあえて危険を冒してパリへ舞い戻ってくる者が大半だったので、キュルヴァル家の家計は日に日に切迫していった。金銭的な余裕がなくなったため、九十年の秋ごろからはうら若きキュルヴァル夫人が社交界に顔を出すこともなくなった。そして同年、アルビンはパリでもっとも壮麗な屋敷のひとつであったショセ=ダンタン地区のロデオン館の売却を決意した。女中を雇えるほどの蓄えはかろうじてあったが、キュルヴァル家の収益は長いこと赤字が続いていた。いまになって思い返せば、散財を尽くしていたころが懐かしく思われた。キュルヴァル氏の場合に限って言えば、顧客が王党派に集中していたことが仇になったといえる。いまは亡き両親とは違い、この正直者はそもそも商才というものを持ち合わせていなかったし、先見の明にしたって人よりもずっと欠けていた。
「ええ、息子たちを預けている乳母が滞っていた分の養育費を催促する手紙を寄越したものですから、これはその返済に充てるつもりです。マルシャン夫人に紹介された古着屋で、セニエさんとおっしゃる方なのですけれど、結構いいお値段で買い取って下さったのよ。明日送る予定の養育費分を差し引いたとしても、まだおつりが出るくらいですわ」
 シャルロットは夫の心労を気遣い、努めて明るく振る舞った。たとえキュルヴァル氏が生きた酒樽だったとしても、二人が夫婦であることに変わりはなかった。彼女は夫が情けなく落ち込む姿など見たくなかった。「ねえ、ですからわたし、久しぶりにお芝居でも観に行こうかと考えていますの。いまはどんなお芝居が上演されているのかしら? あとはちょうど新しい帽子も欲しいと思っていたところですし、フォブール・サン=ジェルマンにも足を延ばすつもりですわ」
「そうだな、たまにはきみも外出して気晴らしをするべきだ。友人たちを連れて出掛けてくるといい。少し前まで家によく遊びにきていた、あのご婦人は……シュミッツ伯爵夫人はどうしている? 近頃はとんと姿を見なくなってしまったが、元気にしているのかい?」
 嫁いできたばかりの頃のシャルロットはそれこそ毎晩、夜会やら舞踏会やらに顔を出していたものだった。自由奔放に育てられた若い娘はキュルヴァル氏の有り余るほどの資産を湯水のように散財し、美容に精を出したかと思えば取替え引替え愛人を作りはじめ、賭博に耽り、夫の知らぬ間に別荘を購入する契約まで交わしている始末で、穏和なアルビンでさえ当初は苦い顔をせざるを得なかったものだが、かつての日々を思い出すたびに、彼はこみ上げてくる笑いを抑えきれなくなるのだった。時の流れはいともたやすく人を、また人を取り巻く環境とを変えてしまう。慎ましい生活は決して楽ではなかったが、妻があの堕落しきった生活に終止符を打つに至ったことは、喜ばしいとまではいかずとも、安心したというのが本音だった。夫婦が顔をつきあわせて日に二度の食事を取るという上流階級者にあるまじき生活も、ここ半年ほど前に始まったばかりだった。
「ご存知ありませんでしたかしら? デルフィーヌは三ヶ月ほど前に、ご家族を連れてパリを離れましたわ。シュミット伯爵のご実家がオーストリアにおありだとかで、パリが落ち着くまではそちらに滞在するつもりなのですって」
 アルビンはかぶりを振りながら深いため息をついた。
「パリもどんどんと寂しくなっていく」
 古くからの友人や知人、顔見知りの貴族たちの多くが次々と祖国を離れ始めていた。彼らがここを去る理由は明白だった。パリの治安は七月十四日のバスティーユ襲撃を封切りに、いまや手の施しようもないほどの混乱を見せていた。暴動は革命へと変化したが、民衆たちの飢えと貧困はなおも変わらず続いていたのだった。狂乱した市民たちはこれまで散々甘い汁を吸ってきた貴族階級者を目の敵にしており、現時点で多くの支持を集めているフィリップ平等公でさえ、明日には気まぐれな彼らの憎悪の的となっているかもしれなかった。
「デルフィーヌは元気にしているかしら。落ち着いたら手紙を寄越してと何度も念を押しておきましたのに、ちっとも音沙汰がないのです。わたし、彼らの身になにかあったのではないかと心配でなりませんわ。オーストリアへの道中でなんらかの暴動に巻き込まれたとか、そういったことがなければいいのですけれど……ほら、先日も国王陛下ご一家がヴァレンヌで……ありましたでしょう、国中が大騒ぎになって……」
「きみの悪い癖だ、物事を悪い方向に考えすぎだよ。きっと元気にしているさ」
 妻の心痛を察したように言葉を返すアルビンだったが、彼の頭の中には去るバスティーユ襲撃の当日、パリ市内で偶然見かけたフレッセル氏の首が浮かんでいた。縁起でもない、明るい話題を探さなければ、と彼は思った。そしてアルビンは今宵、妻に伝えるべきもっとも大事な知らせをようやく思い出したのだった。そうだ、これを伝えるために普段よりも早く居間へやってきたのではないか。
「ああ、お酒を口にするとぼくはどうも忘れっぽくなっていけない」と、アルビンは懐のポケットをまさぐりながら言った。「いちばん重要なことを忘れていた。今朝の話になるが、きみの兄上から手紙が届いた。今日はそのために早く帰ってきたというわけなんだ」
 シャルロットはグラスを揺らしていた手をぴたりと止めた。夫は申し訳なさそうに言葉を続けた。「ショセ=ダンタンの屋敷に届いていたそうだよ。門番の男が昼過ぎにわたしの元へ持ってきたのだが、すまない、ぼく宛だったものだから先に開封してしまった」
 懐から取り出した手紙の隅にはシャルロットの旧姓でもあるド・デュクレー家の紋章が入っていた。宛名はアルビン・キュルヴァルとなっており、差し出し人はジャン=マルク・フランソワ・デュクレー。ここ数年会っていない兄の懐かしい筆跡を確認し、シャルロットは思わず目を細めた。二度と目にすることはなかろうと思っていた名前である。
「きみも飲むかい?」
 彼女が複雑な感慨に浸っているあいだにも、アルビンはジロンド県のリブルヌで製造された二十年物の葡萄酒をもう一杯おかわりしていた。
「結構です、そんなワインは見たくもありません。あなたはよくも平然とわたしにリブルヌ産のワインを勧められますわね」
「許してくれ、悪気はなかったんだ」
 シャルロットは封筒から数枚の紙の束を取り出した。文字が所々擦れていることから、慌ててしたためられた手紙らしいことが見て取れた。便箋はシャルロットの兄であるジャン=マルクの達筆な字体でびっしりと余すところなく埋め尽くされていた。彼女は大きく息を吸った。「親愛なる市民、キュウルヴァル夫妻。久しくお姿を拝見しておりませんが、お変わりありませんか」
「違うな、きみ」
 アルビンはもどかしげに言った。「三枚目の下から五行目が肝心なんだ、あっと驚くようなことが書かれている。早く読んでみたまえ」
「急かさないで下さいませ。たかが手紙を読むだけですもの、急ぐ必要はありませんでしょう。……それで、どこですって? 最後から五行目とおっしゃいました?」
 困惑げに手紙の下部へ視線を落とすシャルロットにすばやい一瞥を投げたのち、アルビンは仄かに色づき始めた頬を愉快そうに歪めながら言った。「ご結婚されたそうだよ」
「……結婚?」
 彼女はぴたりと動きを止め、夫の言葉を反芻した。そして次の瞬間には、結婚という卑しむべき二文字の単語が頭の中にこだましていた。彼女は自分自身の冷静さを取り戻す意味も込めて、例のおぞましい言葉をもうひとたび繰り返してみることにした。
「結婚ですって?」
 夫の前ということもあり震えそうになる手をどうにか抑え込もうと努めたが、それにしても額には奇妙な汗がにじんでいた。まったくもって予想だにしていなかった知らせを受け、彼女は大いに動揺していた。
「そうさ、驚きだろう。いまのご時世だから仕方がないと言えばそうなるが、身内である我々に一言の相談もなくご婚約をされていたとは、いくらなんでも急すぎる話だ。きみはあまり驚いていないようだが、もしや事前に知らされていたりはしていなかっただろうね?」
「いいえ、いま初めて知りましたわ」
 動揺を無理に抑えようとしたせいか彼女の口調はかえって不自然で、その声は完全に裏返っていた。にも関わらず、アルビンは妻の様子に何の違和感も覚えていないようだった。シャルロットの気持ちなど知る由もないアルビンは、そうか、とただ小さく頷いた。
 手紙には《出会いより数年を経て我々が結婚いたしましたことを、ここにご報告します》とあった。シャルロットはその一文を繰り返し繰り返し目で追い掛け、この手紙は果たして本物であろうか、と確認を試みた。が、幾度これらの文章を読み返してみたところで、流れるような黒インクの文字は消えもしなければ薄れもしなかった。
「きっと……」アルビンはソーテルヌを使った焼き菓子を口に含みながら言った。「良いお相手が見つかったのだろうね」
 シャルロットは手紙を握り締めた自分の手が震えはじめていることにとっくに気がついていたが、この醜悪な感情を抑えられるだけの理性は心のどこか隅のほうへと追いやられてしまっていた。どうすることもできない虚しさと疎外感とが彼女の上にずっしりと覆い被さった。バスティーユが陥落したと知らされたときでさえ、これほどの絶望は覚えなかった。
「シャルロット? どうかしたのか?」
 アルビンは何の反応も返してこない妻に疑問を感じいくらかの言葉を投げかけたが、それでも愕然としたシャルロットの意識をこの食卓へと引き戻すことは不可能だった。いまや目の前にいるはずの夫の声さえもシャルロットの耳に到達するには至らなかった。
 外から侵入してきた夜風が蝋燭を震わせ、壁から天井にかけて浮かび上がっていたいびつな影は不穏に揺らめいた。そこにはこの世の楽園や美しい風景、人間の良心、愛や希望を彷彿とさせるものは何ひとつ存在しておらず、悪魔の後ろ姿のような陰鬱さで人の心を苛み、そして絶望の淵へと誘うべく手招きしているようだった。




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