Le Calme


01.

 フランシスがこの町へふらりとやってきたのは俺が借りているアパルトマンの一階でワインショップ《ラ・カーヴ・ド・フォルティア》を営んでいた老人が亡くなってから、かれこれ二、三ヶ月が過ぎようとした頃のことだった。その老人の孫と名乗るフランシス・ボヌフォワは俺たちのような外国人が想像する、まさに典型的フランス人の外見及び溌剌たる気質の持ち主だった。肩に付くか付かないかの長さの波がかった金髪、海のような深い色合いをした瞳に垂れ目がちの目許、身なりにしたってここらでよく見かける英語圏の観光客とは異なり、いかにも服装への投資を惜しまないといった姿勢が見て取れた。聞けば祖父の死に際し、彼は思い切って骨董品の輸入会社を退社、生まれ育ったパリからここマルセイユへ移り住むことに決めたのだそうだ。
 彼は引っ越してきた日のうちに、このアパルトマンの全住人――といっても七世帯ほどだ――への挨拶を済ませたらしかった。そして、最上階にある俺の自宅は彼にとって最後の訪問先となった。フランシスは右手を差し出すと首を少しばかり傾け、これっぽっちの悪意もない柔らかな微笑を浮かべた。「よろしくな、ムッシュー。高齢者だらけのアパートかと思ってたのに、俺よりも若い子がいて嬉しいよ」
「ん……よろしく」
 のちにそれは互いの思い違いだと判明するのだが、当初フランシスは俺のことを自分よりもずっと年下だと思い込んでいたらしかった。もちろん俺も同じで、二十六歳のわりに随分と落ち着いている彼のことを自分よりも年上だと思っていた。だから意外にも彼が一つ下の年齢と知ったときは大いに驚いたものだった。
「大学生? 一人でこの部屋って広すぎない?」
「そう、だけど……でも猫が、いるから」
「猫と同居か。そりゃいいな、賑やかそうで。俺が住んでる三階の……あ、いや、二階のベランダにもよく猫が来るんだよ。気持ちよさそうに寝そべってる。爺さんが餌付けでもしてたのか、俺が窓を開けると当然のように部屋にはいってきてさ、実はちょっと困ってるんだよね」
 無口な俺とは違い、彼の舌はとてもよく回るようだった。そういえばフランシスの祖父もこういう話し方をする紳士だった、と俺は思い出した。互いに一人暮らしということもあり、彼の祖父は月に何度か俺を食事に招いてくれて、ワインの雑学や若い頃に出会った女性たち、亡くなった妻、今やすっかり疎遠になってしまった孫のフランシスのことなど、ワインが一本空になるまで話を聞かせてくれたものだった。
「その猫、君が飼ってるの? 名前は?」
 俺はフランシスが視線を向けている先に目を遣った。真っ白い毛並みをした猫と頼りない斑柄の猫が二匹、安物のソファに仲良く寝転んでいる。本当はもう一匹いるはずなのだが、散歩に出ているようだった。「名前はまだない。ボヌフォワさん、名付け親になる?」
「それはフランス語の名前でいいわけ?」
「何語でも構わない、英語でも」
「なら考えておくよ。男の子? 女の子?」
「……男の子と、女の子が二匹」
「よしきた、お兄さんに任せろ。あと俺のことはフランシスでいい、そうしたら俺もヘラクレスって呼ばせてもらうし」
「わかった、フランシス」
「そうそう、下の店は今週末から俺が引き継いで再開するから、ぜひともご贔屓に。俺は祖父ほど酒に詳しくはないだろうけど、どういう料理に合うワインを探してるって言ってくれれば探すのを手伝うし、住民割引きで安くしておくから……といっても、せいぜい十パーセントが限界だけどな」
 このアパルトマンの住人の中では俺が唯一の同年代であるせいだろうか、彼は俺に親近感を抱いたらしく、近いうちに食事をしないかと誘ってきた。昼寝から目覚めたばかりでぼんやりとしていた視界をすっきりさせるべく目元を擦りながら、特に断る理由もなかった俺はこくりと頷いた。
「なぁ、目って……」彼は俺の目を覗き込み、さも可笑しそうに言った。「猫を触った手で擦るのは良くないんじゃないの?」
「あ、うん……そう……だけど……もう、遅い」
「もしかしてギリシャ人って、みんな君みたいな変わり者ばっかりだったりする?」
 初対面の男に軽口を叩かれて嫌な気がしなかったのは、相手がフランシスであったからに他ならない。彼が少しの悪意も持たない男であることは疑いようがなかったし、彼とは今後いい付き合いをしていけるに違いないと俺は無意識のうちに確信していたのかもしれなかった。




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