Le Calme


02.

 それからというものフランシスと俺はほとんど毎日顔を合わせるようになった。外出するとき、そして帰宅したとき……俺に限らず、このアパルトマンの住民の誰しもが店先のカウンターでぼんやりと読書に耽ったり、真剣な目でパソコンに向かったり、壁に掛けられた裸婦の肖像画を感慨深げに眺めたり、気だるげに書類の整理する彼の姿を目にしていたことだろう。そして視線が合えば、何かしら相手に合図を送るのが普通だ。というわけで俺が小さく手を振れば、彼はいつだって柔らかく微笑み返すのだった。直接言葉を交わす機会は少なかったが、それでも日に幾度となくこれを繰り返していれば自然と距離が縮まっていくのは至極当然のことだった。
 その週末、フランシスは自慢の手料理とやらを振舞うために俺の住まいを訪れた。春の肌寒さをいくらか残した夜で、開け放たれた窓から流れ込む陸風が酒の酔いを緩和してくれたことを覚えている。
「ここ、趣味の良い部屋だな。ランプとか、本棚の感じとか……お前が改装したの?」
「違う。前に住んでた人、画家だったって……管理人さんが言ってた」
「そうなんだ。有名な人ではないよな?」
「新聞に載った途端、作品の価値が爆発的に上がったらしい」
「名前は?」
「覚えてない。でも、そこの本棚の前あたりで……」俺は広めのリビングの脇に置かれたモダンな白い本棚を指差した。「首を吊っていたそうだ」
「えっ」
「心配はいらない。何も、出ないから。末期の癌と診断されて、自ら死を選んだ……それだけのこと。この本棚は、俺も気に入ってる」
「……俺の部屋じゃないし、お前が構わないなら良いんだろうけどさ。賃貸のアパートで首吊るってのは、そりゃなかなか迷惑な話だと思うぞ」
 白く濁った安物のパスティスをちびちび楽しんでいる俺の横で、フランシスはプロヴァンス産のよく冷えたレ・ドマニエール・ブランを手際よく開けた。彼は学生時代にカフェの厨房で働いていたという、ちょっとした思い出話を聞かせてくれた。地元のパリっ子しか通わないような小さな店だった、と彼はなんら特筆すべきことでもないといった口調で話したが、俺はそれを聞いて納得したものだ。というのも目の前の食卓に並ぶ夏野菜をふんだんに使ったラタトゥイユに、色合い豊かなガスパチョ、海老とそら豆のテリーヌ、生ハムが添えられたグレープフルーツ・ソースのサラダ、真紅のラズベリーソースがかかったパンナコッタはおおよそ素人が作ったとは思えなかった。しかも彼は俺が常日頃使っている食器に不満があったようで、わざわざ二階へ下りて行き、自宅の食器棚から数枚の皿を抱えて戻ってくるほどのこだわりを見せた。たかだか家庭料理にそこまでこだわる必要があるとは思えなかった俺はつい苦笑いしてしまいそうになったが、いざ完成した料理を目の当たりにすると
、自分がいかに短縮的な決めつけをしていたか自覚させられた。彼にとって料理とは、人生をよりいっそうの豊かなものにしてくれる大切なスパイスの一つなのだろう。
「なぁ、今度の週末って空いてる?」
 こぽこぽと小気味いい音を立ててグラスに注がれる美しい液体をじっと見つめながら、俺は首を縦に振った。「今のところは」
「俺、ここに来たばっかじゃん? 観光客の女の子でも引っ掛けて適当に市内観光しようと思ってたんだけど、もし何も予定がなければお兄さんと一緒に行かない? ……はい、これ味見して」
 差し出されたワインの香りを確認もせず一気に飲み干した俺を見て、フランシスは小さく頬を膨らませた。「こら! もっとちゃんと味わって飲んで! ペルノーもさっきから水みたいにがぶがぶ飲んでるし……」
「……ごめん」
「ん、分かればよし」
 彼は《二〇〇四年》と書かれたモダンなデザインのボトルを掲げ、グラスにワインを注ぎ足した。が、白葡萄とは異なる、ある香りがふわりと俺の鼻先を掠めた。
「フランシス……香水、つけてる?」
 思わず彼の手首を掴んで尋ねた。石鹸と間違えそうになるほど、それはほんの微かな香りだった。思い返せば、初めて俺のもとへ挨拶しにやってきたときも彼は香水をつけていた。
「ああ、悪い、匂いきつすぎた?」
「まさか。すごく、フランシスに、合ってる」
 ありがとう、と彼は首筋にかかる後ろ髪を掻き上げて微笑んだ。「これはブルガリのブラック。もしかして、お前って匂いフェチだったりする?」
「違う……と、思う」
「そうなんだ? そのわりに敏感だよな。これ付けたのって今朝シャワーを浴びた時だし」
「……母さんが生理の日は、つらかった」
「そりゃお前、けっこう敏感な部類に入るんじゃ……自分では付けたりしないのか? それとも、付けると気分悪くなるとか? デパートの化粧品売り場の匂いが嫌いって男は結構いるからなー」
「いや、嫌いではない……アクアなんとか、っていうのなら、持ってる」
「ああ、洗面所に置いてあったやつ。付けないんだ?」
「パーティーに行くとき、だけ、かな」
「パーティー?」
 彼はオリーブを一粒、口に放り投げた。「お前、そういうの苦手そうなのに。ちょっと意外かも」
 それから俺たちはよく冷えたワインによって表面が曇っているグラスを掲げ合い、小さく乾杯した。何に乾杯しようか、と尋ねてきた彼に対し、俺は数十秒ほど迷った末に提案した。「地中海に」
 目の前に並べられている海老や帆立、太陽の恵みを受けて育った野菜たちに対する、これは自分なりの賛辞だった。
「ところで観光って、どこに?」
 俺は一口サイズに切り取ったテリーヌをフォークに突き刺しながら尋ねた。
「あ、なに、付き合ってくれんの? 実はまだ全然決めてないんだけどさ、どこかお勧めの観光地ってある?」
「入り江とか、サン・ヴィクトール修道院とか、フランシスは気に入ると思う」
「そっか。案内役になってくれる?」
「もちろん、俺でよければ。あとはパニエ地区も、すごく綺麗で……」
 と、言い掛けながらフォークを口に運んだ瞬間、俺の動作はぴたりと停止した。自分でも驚くほど自然に目を見開いていた。
 味は見かけ通り、期待を裏切らなかった。あらゆる形容詞を使って今の気持ちを表現しようと試みようとも、実際の味に比べたらおおよそ陳腐なものになってしまうだろうから、率直に言うことにする。フランシスの料理は最高だった。「……うまい」
「それはそれは。お口に合ったようで何より」
「ちょっと、これは本気で、驚いた。すごい……ビアン、フランシス」
 もっと気の利いた言い回しをすれば良いものを、俺は語彙力の足りない子供のような賞賛を連呼していた。この国へ来て、三つ目に覚えた言葉だ。「トレビアン」
「メルシー、ムッシュー」
 感動のあまり手の動きを止めている俺をよそに、フランシスはグラスに残っていた食前酒を口元に運びながら軽く頭を下げた。「まぁ当然っちゃ当然だけどね?」
 その素っ気ない態度に、彼はきっと褒められることに慣れた類の人間なのだろうと思った。あるいはフランス人というのは国民全員が料理上手なのか、どちらかに違いない。ただこの国へ留学してかれこれ一年以上が経過しながらも、俺にはまだ友人と呼べるような存在がいなかったので、後者に関しては判断のしようがない。が、少なくとも彼の祖父は孫のフランシスと同様に料理が上手かった。これは確かだ。イギリス料理が世界的に不味い――見た目からして食欲を奪う黒い塊、あのハギスとかいう料理は特にいただけない――と言われていることを踏まえると、もしや味覚というのは遺伝するのだろうか? その可能性はある。
 俺は一旦フォークを置き、白い陶器の皿に注がれたガスパチョを味見してみることにした。新鮮な食材が使用されているせいもあるのだろうが、彼の料理は薄すぎずしょっぱすぎない味付けに加え、すべての食材が見事に調和している。先祖代々伝わる秘薬でも混ざっているんじゃなかろうかと疑いたくなるほど、何ひとつ欠点がなかった。俺は黙々とスプーンを動かし続けた。
「……おいしい?」
 数十秒後、フランシスは出し抜けに問い掛けてきた。すれ違いざまに時刻でも尋ねるかのような口振りに、俺は自分の唇に付着したほのかな甘みのあるトマトの欠片を舐め取りながら答えた。
「え? ああ、うん」
「……こっちのラタトゥイユも食べてみて」
 言われた通り、日本風の小鉢に盛り付けられたラタトゥイユを口に運んでみた。素朴な田舎料理、という言葉がまさにぴったりだった。俺は簡潔に感想を述べた。
「おいしい」
 だがそれだけでは申し訳ないような気がして、こうも付け加えた。批評は苦手なので、語彙の少なさには目をつむって欲しい。「意外と、口当たりが滑らか。こってりしてるけど、量が多くないし……いや、ごめん、上手く言えないけど、懐かしい味がする。香りが良い」
「また香りか。それじゃサラダも食べて。そのグレープフルーツ・ソース、自家製なんだ。昨日の夜に作っておいたの」
「うん……これもすごく、おいしい。俺は好きだ」
 素っ気ない、と俺が先ほど感じたのはどうやら間違いだったようだ、あれは撤回する。フランシスの瞳は唇以上に多くを語っていた。
「よかった」
 器用に見えて、彼は意外と不器用なのかもしれない。お礼を言うべきは俺のほうなのに、彼はどこか心細そうに笑って見せた。
「料理だけは人よりも上手いって自信あるんだけど、やっぱそう言ってくれると嬉しいんだよね。ありがとう、時間かけて作った甲斐があったなーって感じ」
 その後、俺たちの晩餐は深夜一時すぎまで続いた。彼は多くの個人的な事柄を俺に打ち明けた、本来ならば口数の少ないはずの俺もなぜだろうか、彼を前にするとよく舌が回った。育った家庭環境のこと、初恋のこと、結婚観、小学校時代の風変わりな先生のこと、ギリシャ人とフランス人の国民性の違い、大学の専攻、自分たちの友人のこと……ひとつひとつ挙げていけば、それこそキリがないくらい、俺たちはたくさんのことを語り合った。お互いの年齢を知ったのも、ちょうどこの日の晩のことだった。俺の人生について一から十まで完全に知り尽くしているのは世界広しといえどお前だけだと思う、と彼は帰り際に言った。もしもそうだとしたら、実に光栄なことだ。




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