La petite mort







 午後一時半ぴったりに事務所を抜け出し、その老朽化した建物の最上階のさらに上、つまり喫煙を唯一許されている屋上でささやかな一服を楽しむひと時が、経理だとか資料作成だとかの退屈な事務と日に何時間も向き合っているビセンテ・ルブーにとってもっとも心安らぐ時間だった。そして彼は片側車線の小さな路地を挟んだ真正面に望むことのできるアパルトマンのとある一室で、コーヒー片手にのんびりと仕事をこなしているカミーユの姿を事あるごとにちらりと確認するのだった。カミーユという名はビセンテが勝手に付けたものであったが、彼はその名が有する美しい響きを大変気に入っていた。これ以外の名はカミーユに相応しくないとすら思っていた。まっすぐ筋の通った高い鼻、優しげだが少しばかりいたずらな印象も抱かせる目許、毎朝家を出る直前に飲んでいるカフェ・クレームそっくりの柔和な髪といった要素をすべて合わせると、そこにはカミーユという一人の青年が佇んでいるのであった。
 平日の午後一時半、かならずといってよいほど向かいの屋上からこちらを眺めている男の存在に気付いたカミーユは、その男と意思の疎通を図ってみようと思い立ったらしい。カミーユはいつしかちょっとした合図のようなものをこの喫煙者に送ってくるようになった。始めのうちはウインクやありきたりな笑みを向けてくるにとどまっていたが、二ヵ月後には手を振ってくるようになり、三ヵ月後には身振り手振りを交え、カミーユは内向的で物静かなビセンテから様々な表情を引き出すまでになった。しかし彼ら二人の勤める会社が事務所を構えているアパルトマンはどちらもサン=フロランタン通りの目立たない片隅に面しており、パリっ子はもちろんのこと、観光客やら若者やらで日夜賑わいを見せるパリの中心部である。都会独特のあの喧騒、すなわち若者らの話し声、異国の言葉、隙間を埋めるようにして駐車していく住民が車のドアを開閉する音、パトカーや救急車の警報、しつけのなっていない犬の鳴き声などが二人の距離をさらに遠く懸け隔てているのだった。が、しかしビセンテは現在の距離感に十分すぎるほど満足していた。というのも直接的な接触がない分、彼はカミーユという青年の素晴らしき人物像を構築するに際し、その足りない部分を自分なりの想像で補うことができたのである。
 帳簿にひたすら数字を打ち込んでいくという気が滅入る作業の合間を縫って、彼はカミーユの生い立ちから現在の交友関係に至るまでをひとつ残らず完璧に作り上げた。夫を事故で亡くしたカミーユの母は、女手一つで三人の子供たちを立派に育て上げた。カミーユには弟と妹が一人ずつおり、故にカミーユは母親想いのしっかり者だが、長男特有のおっとりした性質をも持ち合わせていた。初めて恋人が出来たのはリセの一年目、相手は同級生のエリカだ。しかし、二人の関係は半年も続かず破局した。エリカには彼以外にも複数の恋人がいたのである。大学への進学試験の結果は悪くなく、無事に志望校へ進学することができた。カミーユは大学で二人の同級生と交際した。二人目の女性とは三年ほど続いたが、大学を卒業後の結婚を強く求められたこともあり、将来に対する展望の不一致から別れを選択することとなった。ビセンテと同じように、カミーユはどこにでもいる平凡な若者なのだった。カミーユも彼と同様、日々偏屈で口うるさい女上司から数々の雑用を任されながらも泣き言一つ零すことなく前向きに働き、帰宅後は自分だけの時間をのんびりと満喫し、週末には家族や友人らと昼食を楽しむのだ。
「ビセンテ……ビセンテ! ビセンテ・ルブー! ちょっとあなた、いい加減になさい!」
 作業中の書類が散らばった机に頬杖をつき完全にうわの空になっていたビセンテは、例の口うるさい上司の呼び掛けによって瞬時に現実へと引き戻された。
「ああ、はい」彼は間の抜けた声で言った。「なんですか」
「なんですか、じゃないわよ! その見積り、まだ終わらせてなかったの? 今日の三時までに先方へ届けなきゃならないっていうのに、まったく、あなたほど人を苛立たせる才能に恵まれている男もめずらしいわ! 早くしてちょうだい、これ以上期日を延ばすわけにいかないんだから」
「すみません、急いで終わらせます」
 揉め事を嫌うビセンテは素っ気なく謝ると、コンピューターの画面に映し出されている入力用のひな型を見つめた。こんなもの十五分もあれば終わらせることができるのだから放っておいてくれ、と彼は内心毒づいた。この陳腐な見積り書を片付ける前に、ビセンテには済ませておかねばならないことがあった。もしも偶然カミーユと道端でばったり遭遇してしまった場合に備え、同性同士でも気軽に入ることのできる、なおかつ料理上手の彼を同伴するのに申し分ないビストロを探しておきたかった。ありとあらゆる事態に備えておく必要がある。
「ビセンテ! あなた、またそうやって……仕事に集中しなさい。ほら、手を動かして」
「いまやろうとしていたところですよ」
 ビセンテは数字を愛していた。数字には揺らぐことのない永遠性があり、それらはビセンテを決して裏切らない。”一足す一”はかならず”二”になるのだ。彼の完璧主義が発揮される分野は数字の計算に限らず、週末や休暇などの計画、人と接する際にしても先の先まで行動を考え、緻密な演出を練っておかねば気が済まなかった。そういう性分なのである。
 ああ、カミーユはいまごろ何をしているだろうか? ビセンテは机の隅に置かれたメモ用紙にボールペンの試し書きをしながら物思いに耽るのだった。彼の馴染みのカフェは? お気に入りの味付けは? これらは店を選ぶ上で大いに参考になる。カミーユは生粋のパリっ子だ、足しげく通うカフェの一軒や二軒……いや、それ以上あるだろう。時計の針は、まもなく十二時四五分を指すところだった。ビセンテの胸は躍った。もうじき、例の時間がやってくる。
 だがこの日、心休まる屋上での休息は与えてもらえなかった。彼はかつてないほどの大きなミスを犯した。どうせすぐに終わらせられると高を括っていたが、例の見積り書は両手を使っても数え切れないほどの数にのぼった。真後ろではピンヒールを警報のように激しく鳴らして彼を急かす上司の姿があり、窓際のデスクには新商品を紹介するためのウェブページの構想を練っている無口なデザイナー、営業担当のジャックは低俗極まりないゴシップ誌を読みながら自宅さながらに寛いでいる。ビセンテはうんざりした。数字の計算は嫌いではなかったが、就職してから二年半、彼はこの職場をいまだ好きになれずにいた。というのも彼の目には、この同僚どもが糞以下の存在として映っていたからである。
 よくよく考えてみると、今日は朝から不運の連続であったように思われた。行きつけのカフェが臨時休業していたせいで、一杯のエスプレッソを飲みながら新聞に目を通すという日課に狂いが生じてしまったことがまずひとつあったし、地下鉄では不幸にも中国人観光客の集団が途中から乗り合わせてきたせいで、イヤホンから流れてくるはずの古典映画音楽集はちっとも耳に入ってこなかった。しまいには改札を出た先にある自販機で三日に一度購入しているチョコチップのクッキーが、事もあろうか売り切れていた。仕事中に小腹が空いたときなど、煎れたての紅茶を飲みながらクッキーをかじるというのもビセンテなりの気分転換のひとつであったので、それすら叶わなかったこの日の終業後、彼の機嫌の悪さは最高潮に達していた。
「いつもは真っ先に帰宅するあなたがこんなゆっくり会社に残っているだなんて、珍しいこともあるものね。わたしは先に帰らせてもらうから、事務所の鍵は戸締まりをしたあと、一〇二号室のサニョル夫人に忘れず預けておいて。いい?」
「わかりました、一〇二号室ですね」ビセンテは答えた。「良い週末を、ダニエル」
「ええ、あなたも。……それじゃわたしはお先に失礼するわ、今夜はこれから夫と食事に行くの。半年も前に予約していたレストランだから、そうね、浮足立つってこういう気分を言うのかしら?」
 年甲斐もなく浮かれている上司が事務所の扉を閉める音を聞きながら、沸き立つの間違いじゃなかろうか、とビセンテは思った。すっかり冷めてしまったダージリンの入ったカップを不味そうに口元へと運びながら帰り支度をしていた彼は、ふといまの現実が非常に馬鹿らしいものであると確信せずにはいられない、あの虚しさに満ちた観念に襲われた。ビセンテは妥協だらけの人生を送っている、ただの惨めな男なのだった。彼の恋人、ジュリエットは不細工な尻軽女で、男という男に股を開くことを生き甲斐としていた。誰かに必要とされていないと不安になるの、というのが彼女のお決まりの自己弁護だった。
 ビセンテは自分が何の才能も、何の取り柄も持たない退屈な人間であるという現実を甘んじて受け入れていたので、愛してもいないジュリエットとの関係もかれこれ一年ほど続いていた。ビセンテの頭の位置はフランス人男性の平均的な身長のそれよりもずっと低い位置にあったし、ファッション誌に掲載されている小粋な服装を真似るという涙ぐましい努力をしてみたところで、彼の十人並みの容姿では何ら功を成さなかった。気の利いた冗談のひとつも言えなければ、機智に富んだ会話をすることもできなかった。親友と呼べるような相手などいるはずもなかった。カミーユという架空の青年は平凡ながらも、ビセンテにとっての夢や理想が少ながらず投影されていた。彼はカミーユのようにありたかった。そもそもビセンテという、フランス人らしからぬ名前に対してすら彼は不満を抱いていた。まるでスペイン人のようではないか。
 ビセンテは抜かりなく事務所の戸締りを終えると、階下の管理人に鍵を預けに向かった。いかめしい扉を控えめに叩くと、すぐさま朗らかそうな老婦人が彼を出迎えた。
「こんばんは、奥さん」彼はもごもごと挨拶した。「ダニエルがあなたに事務所の鍵を預けておくようにと……」
「初めて見る顔ねえ」
 夫と共にひっそりとした老後を送っていると聞くサニョル夫人はビセンテの姿を目にするなり言った。「いつもはダニエルかルイが鍵を届けてくれるのに。それともあなた、新しく採用されたばかりの方かしら?」
「いいえ、そういうわけでは……二年半前から働かせてもらっています」
「まあ、そうだったの」サニョル夫人はどこかおどけたような表情で頷いた。「それにしてもあなた、とても趣味のいいマフラーをしているのね」
「ありがとうございます、母がクリスマスのプレゼントに贈ってくれたものなんです」
「素敵だわ、特にその色合いがいいわね」
 好感の持てる老婦人だ、とビセンテは思った。このマフラーは彼のお気に入りだった。
「サニョル夫人、良い週末を」
 ビセンテは彼女のしわくちゃな手のひらにちょこんと鍵を乗せた。
「ええ、あなたもね。気をつけて帰るのよ」
 感じの良い老婦人とのやり取りにわずかながら元気づけられたビセンテはアパルトマンの扉を開けた。外はまるで絵に描いた冬景色のごとく、柔らかな雪が幻想的にちらついていた。
 白い息を吐き出しながらくすんだ色をたたえた夜空をぼんやり見上げていた彼は、さてようやくコンコルド駅へと足を向けようとしたところで、通りを挟んだ真向かい側の門から一人の青年が美しい金髪に恵まれた長身の女性を伴い、仲睦まじく出てくる場面を目撃した。ビセンテはマフラーを巻き直していた手をふいに止めた。
 その人物は紛れもなくカミーユであった。相手の青年もこちらに気が付いたようで、ビセンテは彼がひどく困惑げな表情を浮かべたのを見逃さなかった。
 が、カミーユは次の瞬間、満面の笑みでもって右手を高く上げて見せた。「やあ、きみじゃないか! 今日は煙草を吸っていなかったね」
 彼の声はビセンテが想像していたよりもずっと男らしく、伸びやかさにも欠けていた。恐るべき現実を否応なしに突き付けられたビセンテは数メートル先からこちらに向かって手を振っている見知らぬ男にすぐさま背を向け、すたすたと歩き出した。自分は何も見なかった、誰とも遭遇しなかった。彼は自分に言い聞かせた。あの青年はカミーユではなかった、ただの見知らぬ青年だった、そうに決まっている。
 ビセンテの退屈な日常はその後もこれといった変化を見せることなくあいかわらず単調に続いたが、彼はしばし事務所の外で煙草を吸いながら、何を探すわけでもなく真向かいのアパルトマンを見上げるのだった。ビセンテの探し求めるカミーユの姿がいまはどこにも見当たらなかったとしても、いつかその数ある窓の一つからひょっこりと顔を出してくれることだろうと彼は信じていた。



[ Happy ending version ]
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