still still


 その路地には希望という言葉の影も形も存在しておらず、太陽が出ていようと雨が降っていようと、常にじめじめとした陰鬱な空気が漂っていた。泥のような黒土に覆われた地面には窓という窓から投げ捨てられた汚物や、真っ暗い路地に面した場所に住まう憐れな住人たちが食べ残した野菜、肉片がそこら中に散乱しており、実に不快な悪臭を撒き散らしていた。もしもこの場所で足を滑らせ転倒でもしようものならば、衣服の生地を通して容赦なく肌にまで染み込む悪臭は最低でも一週間は落ちることがなかろうと思われた。路地に寝そべる数人の浮浪者の姿はといえば、数百年も前からパリでは見馴れた光景の一つとなっていた。彼らはしばし路地を通りがかる見知らぬ旅人たちに対して金銭を要求したりなどして、かろうじて飢えをしのいでいた。彼らのような者はどこの都市、いつの時代であろうと必ずいるものだ。
 当然ながら、人通りは少なかった。この世においてもっとも絶望に近い、この薄暗い路地を通らざるを得ないとき、わたしは可能な限り、足早でそこを通り過ぎるようにしていた。そうでもしなければ自分でも気付かぬうちに、彼らの陰鬱さに飲み込まれていってしまうのではないだろうか、そんな不安と恐怖心に駆られたのだった。
 シチリア島、パレルモのとある年の夏のことだった。五日間に渡る長雨が降り続いた。土が泥水に、泥水が濁流へと変化していく様をわたしは自室の小さな窓から見下ろしていた。それくらいしかすることがなかったのだ。豪雨のなか、外出などできようもない。
 そして五日が経った。とうとう我が家から食料が尽きかけようという頃、ようやく雨が上がった。
 路地一帯を覆い尽くした泥水の中に、一人の浮浪者の死体が浮かんでいた。水分を吸収したせいか、わずかに膨れ上がった男の死体は奇妙なつやによって皮膚の表面が光っているように見えた。浅黒の肌は白くなり、茶色の唇は明るい紫に変色しているようだった。死体とは思えないほど美しかったことをわたしはよく覚えている。
 しばらくすると数人の男たちがどこからともなくやってきて、その死体を荒っぽく運び去っていった。
「坊主、こいつに見覚えはねぇか?」
「……ありません」
 顔中が髭や髪の毛で覆われた、その哀れな浮浪者の名を知る者は誰一人としていなかった。彼はどこで生まれ、どのような両親の元で育ち、なにをきっかけとして住まいや職を失い、あのような最期を遂げる破目になってしまったのか? いいや、あるいは生まれながらのどん底だったのか?
 空の色が変わろうとも、路地の色はいつまでたっても同じままだった。小窓から窺える色彩のない外の光景は、わたしの母から絶えず気力を奪い続けていた。例の死体を役人たちが引きずっていく光景を目にした母は途端に脅えたような目付きになり、十字を切った。そして彼女はしきりに祈り始めた。
 この世は所詮、恵まれた者だけのためにあるのだとわたしは幼いながらに悟った。貧しい者は容赦なく突き放され、痛みや苦しみを強いられる。なんという理不尽、なんという不当な仕打ちだろう。そして例の浮浪者らに対してだけではなく、わたしは自身の母親に対しても、憐れみの目を向けざるを得なかった。彼女は畏怖の念をもって神に祈り、あわれ、時おり歌を口ずさむことしか許されてはいないのだ。
 母の歌声がしばし耳に入ってくるたびに、わたしは彼女がまたも新たな不幸と抱擁をかわしているのだろうと思った。そして彼女が絶望に満ちた歌を紡ぐたび、わたしは母を軽蔑するのだった。


「うるせえな!」
 男のがなり声が薄暗い路地に響き渡った。雨や泥でしめった汚い布切れに包まった彼、中年浮浪者の視線は一匹の小さな猫に向けられていた。「おい小僧、そいつを黙らせろ」
 母猫に置いていかれた子猫は、すでに衰弱しきっていた。見たところ、あと数時間の命だろう。親を失った寂しさを慰めるようなか細い猫の鳴き声は聞いているだけでも痛々しく、生まれて間もない子猫から感じ取れるその必死さには真っ当な精神を持ち合わせた人間であれば誰しもが憐れみなり同情なりといった感情を抱くに違いなかった。が、いまのパリに普通の神経とかいう価値のない感覚を持ち合わせている者が一人でもいるだろうか?
「ねえ、猫の肉って食えるの?」
 南部訛りの言葉で返す少年も子猫と同様にひどいありさまだった。目の下の真っ黒い隈、深く刻まれた口元の皺、紫がかった血色の悪い唇、土気色の頬、不自然に浮かび上がる頬骨、なかでも枯木の小枝のように細い両腕などは特に発育の遅れが著しいように思われた。年齢はわからなかった。少年は病に冒された犬のような目付きをしていた。
「やめとけ、猫の肉なんぞ美味いもんじゃねえぞ」
 中年の浮浪者は最低だと言わんばかりに答えた。
「まったく、ひでえ光景だぜ」
 長椅子に体を預けていたボーマルシェは窓の外を一瞥したかと思うと、忌ま忌ましそうに吐き捨てた。「あんたもそう思うでしょう」
 わたしは何も答えず、ただじっと少年の姿を観察していた。幼かったころのわたしはかなり頻繁に自分の境遇を嘆いていたものだったが、こうして思い返してみると、わたしは誰かに対して常に同情を寄せては、神の存在に疑問を抱く側だった。同情を抱かれる側になったことはこれまで一度もないような気さえした。
「おれはこの街で生まれ育ったが、それでも数十年前のほうが、いまよりはよほどましだったと思うね」
 いまの現実は、そう遠くない未来、確実にくつがえされることになるだろう。これまで虐げられてきた人々は平等と名のつく正義を振りかざし、悪を打倒せんとする。だが、わたしはどうだろう? 正義の名の元で裁かれはしないだろうか? 彼らからすれば、わたしのような傍観者も貴族らとなんら変わりのない加害者なのではないか? パリの不穏な空気は、わたしに不吉な予感をもたらして止まなかった。
「やめねえか、坊主! もう死んでる!」
 怒声とも悲鳴とも取れる叫び声が、通りの傍から発せられた。はっと気付いたとき、わたしの目には醜悪な光景が映っていた。少年の手には成人した男性の頭部ほどの大きさを持った、巨大な石が握られていた。ああ、胸やけがした。石の一面は赤く染まっており、彼の足元には小さな肉の塊が転がっていた。考えるまでもない、猫の死骸だった。
「なんだありゃ、猫か?」
 ボーマルシェも先の叫び声に反応したらしく、身を乗り出さんばかりに窓から首を突き出した。
「やっぱりそうだ、あのガキ、猫をぶっ殺しやがった! おお、神よ……」
 この男の口は、不快なほどによくまわる。いや、しかしこのの不快感を生み出しているのは彼ではない。
 天国と地獄が、絵に描いたように共存している。
 血走った瞳に狂気の色を滲ませた少年は、しばらくのあいだ茫然と、足元に落ちている死骸を見つめていた。彼を煽った張本人である浮浪者の男は気味の悪い侮蔑的な笑みを浮かべながらまだ幼い少年を指さすと、大声で笑い始めた。「とはいえ、よくやった、小僧! だがな、猫の肉なんぞまずくて食えたもんじゃねえぞ」
 表情のないぼんやりとした顔で、少年は死骸を見下ろし続けていた。彼の心中は、一体どのようなものだったろうか。わたしは興味深い舞台の一場を目撃してしまったような気分になった。少年は次の瞬間、奇声を発した。もしも彼がいまだ人間らしい感情や理性を、ほんの少しでも持ち合わせていたとしたら、本来ここで上げられるべき叫びは、奇声ではなく悲鳴であっただろう。少年の奇声は死にかけた犬や屠殺場に連れてこられた動物たちが最後の抵抗を試みる際に発する、あの悲痛で繊細な唸り声と同様で、ある種の滑稽さを兼ね備えていた。
 ボーマルシェは屋外で繰り広げられる悲劇などには関心がなさげだった。彼は卓上の皿に乗ったボンボンをひとつ口に含んだ。わたしは少年に視線を向け続けた。神とやらが少年のために書き下ろした薄っぺらい台本は悲劇にしてはあっけないもののように思われたが、逃れられぬ現実にしては、あまりに無慈悲な結末だった。少年は台本の最終ページをめくってしまった。そこには、短いト書きが添えられていたのだろう。
 奇声が徐々に小さくなっていったかと思えば、少年は雨でぬかるんだ黒い地面に膝をついた。
 わたしの観客席からは少年が瞳の色を一瞬にして失ったであろう最期の一場面、その細部まで見届けることは叶わなかった。遠目にも理解ができた事実はといえば、少年が陰惨たる死を迎えたという、紛れもない結末だけだった。
 居ても立ってもいられなくなり、わたしは自分でも無意識のうちに部屋を飛び出していた。背後からなにやらボーマルシェの声が聞こえてきたような気もしたが、わたしの胸に植えつけられた使命感を遮ることはできなかった。足早に階段を駆け下りたところで、わたしの姿を見咎めた宿屋の娘が驚いたように言った。「あなた、外は雨ですよ!」


 みすぼらしい通行人の老婆や、先ほど少年を煽っていた浮浪者らの視線を受けながらも、わたしは小さな二つの遺体をそっと外套で包んだ。
 今朝から降り続く雨によって、少年の体温はすっかり奪われきっていた。ほんの数分前に息絶えたばかりだというのに、まるでよくできた蝋人形を、間近で見ているようだった。わたしはぬかるんだ溝から自分の足を引っ張り出し、外套に包んだそれらを腕に抱いた。
「物好きですねえ」
 頭上からボーマルシェの声が降ってきた。彼はわたしの背後に悠然と佇む宿屋の窓から、居心地が悪そうな表情でひらひらと右手を振って見せた。
「おれには旦那の考えていることがちっとも理解できねえや」
 子猫の小さな頭蓋骨から流れ落ちていたはずの血液は、降りしきる雨によってすっかり洗い流されていた。砕かれた顎や前足、潰された片目はあまりにも陰惨で、わたしは思わず目を逸らした。やりきれない虚しさと、やり場のない怒り、憎しみ、罪悪、困惑、様々な感情が複雑に入り乱れた、言葉だけでは表現することのできない思いがわたしの胸の中で激しく暴れ出した。これまでの人生において、死に立ち会った経験は何度かある。それでも、いまわたしの目の前に広がっている光景はどこか奇妙だった。なにかがおかしかった。
 不本意ではあったが、わたしは例の浮浪者の男に向き直った。どうしても訊いておきたいことがあったのだ。
「あんた、この少年の名前を?」
 名前が知りたかった。自分でも理由はわからないが、せめて彼の名前だけでも知ることができたなら、それだけでもわたし自身、この虚しさからわずかばかりでも救われるような気がした。
 浮浪者の男は、胡散臭そうな表情でわたしを見上げた。
「知らねえよ」
「そうか」
「……おれが知るわけねえだろ」
「わかった」
「あんた、ガキと猫の死体なんか拾って、一体どうするつもりだい。妙な趣味でもあるのか」
 わたしは上着の内ポケットから、たまたまそこに入っていた三リーブルを取り出すと、下卑た笑みを浮かべる男に向かって投げつけた。
「飯でも食え」
 本来ならば足蹴にしてやるところだったが、かろうじて思い止まった。わたしの腕で眠る少年の姿がこの男の未来と重なったからだ。
 雨は止む気配を見せない。わたしはここから一番近い大通りに出て、辻馬車を拾った。腕に抱えた彼らの埋葬場所を探すためだった。御者にしてみれば厄介な客だったかもしれないが、行き先を告げると素直に馬車を出してくれた。馬車の外へ視線を向けると、宿屋の窓越しにボーマルシェがひらひらと手を振っていた。多少ひねくれた性格をしているのは否めないが、根が悪いやつでないことは知っている。そもそもわたし自身だって、善良で慈悲深いと称される種の人間でないことは百も承知なのだ。
 赤く染まった子猫は、力無い少年の腕の中に抱かせておいた。これは悪意のない偽善なのだろうか? しかしそれでも、腕に眠る彼らがわずかにでも抱いていたと願いたい希望の残り火を、無関心な他者たちによって絶やされないようにする方法を、探してやりたかった。
「おやすみ」
 わたしは少年の顔に付着した泥を服の袖で拭い、小さく呟いた。「やさしい夢を」


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