Que reste-t-il de nos amours?





 つかの間の情事を終え、午後の陽光が美しく差し込む居間のソファでしばしまどろんでいたフランシスは年下の若者が立てる物音によって目覚めた。彼は慌ただしく部屋を行き来している恋人、ルートヴィッヒの背中に向かって問い掛けた。
「ねえ、泊まっていっていい?」
 答えはすぐに返ってきた。「駄目だ、今夜はあいにく忙しい」
 フランシスはいつの間にやら自分の身体を包んでいた季節外れの暑苦しいブランケットを剥ぎ取ると、気だるげに周囲を見回した。上質のペルシャ絨毯に脱ぎ散らかしていたはずの衣服は丁寧にたたまれ、食卓机の椅子にちょこんと置かれていた。彼は一糸纏わぬ情けない姿で立ち上がり、素足のままキッチンへ向かった。
「いいじゃん、俺ここで待ってるよ。まだ市場は開いてるだろうし、これから食材を買ってきて、そうだ、庭に椅子とテーブルを運ぼう、そこで食事するんだ。俺、今日ワイン持ってきたから……」
「フランシス、出掛ける用事が入ってるんだ」
 寝室に姿を消していたと思われるルートヴィッヒは旅行鞄と大量の衣服を抱え、居間へ戻ってきた。彼はのろのろと下着に脚を通しているフランシスに目もくれず、さも忙しそうに言った。「またの機会に」
 身繕いを整えたフランシスはキッチンと廊下続きになっている居間へ戻ると、本棚の脇に置かれたレコードの再生機に手を伸ばした。とっくに円盤から外れてしまっていた針先を中央部に乗せる。生まれ育ったパリを偲ばせる《薔薇色の人生》が室内に心地好く響き渡った。
「それじゃ来週は? 来週も会える?」
 フランシスは養父から譲り受けたという革製の旅行鞄に衣服やら何やらをせっせと詰め込んでいるルートヴィッヒの背後に回り込み、よく鍛えられた骨張った腰に両腕を絡ませた。自分が眠っているあいだにシャワーを浴びていたらしい恋人の肌からはキャロットオイルの甘い石鹸の香りがした。ちょうど一ヶ月ほど前にフランシスが置いていったものだったので、彼は思わず口元を綻ばせた。が、付き合い始めた頃のルートヴィッヒといえば腰に手を回され、頬に軽く口付けられただけで顔を真っ赤にしていたというのに、慣れとは恐ろしいものである。
「いいや、八月末までは無理だな」
 ルートヴィッヒは煩わしそうに恋人の腕を引き剥がすと、聞き分けのない子供を叱りつける父親のような口調で言った。「明日からはハイデルベルクで教授の手伝い、病院での研修も入っているし……前にも言っただろう、夏のあいだは兄さんやローデリヒたちと田舎で休暇を過ごすことになっている。何月何日の何時の列車に乗るか、そこまできちんと説明したはずだぞ。何度も同じことを言わせないでくれ」
「……だけど、覚えられなくて」
「覚えられないんじゃなく、覚えようとしていないんだろう」
 実際その通りではあったが、一方的に決めつけるような言い方にフランシスは悲しくなった。彼は行き場を失った両手を首の後ろで組み、自分自身の感情を悟られまいとあえて素っ気なく振る舞った。「まあね。よくご存知ですこと」
「……俺は事前に誘っていたのに、直前になって断ってきたのはお前じゃないか。せっかくフェリシアーノやイヴァンも来るというのに」
 誘ってきたのはルートヴィッヒ本人ではなく、正確には彼の兄であり自分の親友でもあるギルベルトではないか。
 フランシスは口汚い罵りとともに反論してやりたい気持ちをぐっと抑え、どうにかこうにか深い溜息を一つ吐くにとどめた。
「旅費の問題もあるけど……やっぱりほら、パリにも帰りたいし?」
 勝手にしろ、ルートヴィッヒはそう言いたげに恋人を一瞥した。
 フランシスは薄手のワイシャツの袖を捲りながらキッチンへ向かい、調理台の隅に置いておいたルイ・ラトゥールのロマネ・サン・ヴィヴァンを手に取った。今夜二人で飲むつもりだったが、仕方あるまい。彼はあいかわらずせかせかと歩き回っているルートヴィッヒの足音を意識しないよう努めながら、ひとり寂しくワインの栓を抜くことにした。せめてもの救いは室内に響き渡るピアフの幸せそうな歌声だった。彼は瞼を閉じ、音に身を委ねた。あまりに先の長い話で笑われそうだからという理由で、良くも悪くも他人の言葉を話半分にしか聞いていない親友のアントーニョ以外の誰にも打ち明けたことはなかったが、彼はいつか自分がこの世に別れを告げるその間際、自らの人生はまったくもって薔薇色だったと微笑みながら息を引き取れるような幸せを掴みたいと、そんな密かな理想を胸に抱いていた。
「……おい、人の手帳を勝手にいじるな」
 目の前の食卓に置かれた黒革の手帳を赤ワインが並々注がれたグラス片手に眺めていたフランシスの背後から、ルートヴィッヒの無機質な声が降ってきた。「油断も隙もない」
「まだ何もいじってねぇっての。言い掛かりつけないでくれる? これからいじろうとは思ってたけどさ……あ、もしかして俺に見られちゃまずいモンでも入ってたりして?」
 いやらしい切り抜きとか、女の子から貰った手紙とか。
 銀のマグネットを外しながら言えば、ルートヴィッヒは諦めたように首を左右に振った。
「まぁいい、好きにしろ。お前が期待しているようなことは一切書いていないし、入ってもいないぞ」
 フランシスの指先は自然と今月、つまり七月のページを開いていた。ルートヴィッヒが口癖のように言っていた通り、確かに今月はほぼ毎日予定がぎっしり詰まっているようだった。さて、七月十四日の欄には黒いペンで《研修。旅券受け取り。草稿提出》とだけ書かれてあり、その日にちょうど二十数回目の誕生日を迎える予定のフランシスは思わず手帳を窓から放り投げそうになった。せめて日付の部分を丸で囲むくらいのことをしておいてくれたって罰は当たらないだろうに。
 そこで素直に手帳を閉じてしまえば良かったものを、いてもたってもいられなくなったフランシスはふと思うところあって一月のページを開いた。十八という数字が薄く印刷された四角い枠内には《Gilbert》と小さく記入されていた。ふん、とフランシスは鼻を鳴らした。
 彼は続けてカバーの隙間に挟んであった一枚の小さな白黒写真を取り出した。満ち足りた表情とはまさにこういうことを言うのだろう、とフランシスは思った。写真の四隅は完全に捲れ、すっかりくたびれてしまっているものの、そこに写っているギルベルト、ルートヴィッヒ、二人の亡き義父フリードリヒは実に幸せそうな微笑みを浮かべていた。
「……この写真、ボロボロ」
「ああ、それはネガを失くしてしまったから焼き増しができないんだ。ほら、早く返せ」
「はいはい」
 少年時代に父親を亡くしてからというもの、ギルベルトとルートヴィッヒは互いに支え合い、協力し合い、励まし合ってきたのだそうで、両者のあいだには部外者の立ち入ることのできない特別な絆が形成されていた。神経質を具現化したと表現しても過言ではないルートヴィッヒは、他者による私生活への干渉を特に嫌っている節があった。
「……こんなボロい家さっさと売り払って、俺のアパートで一緒に暮らすっていう選択肢はお前の中にないんだろうね」
「フランシス、義父との思い出が詰まってる家だ。俺たちはここが気に入って――」
「俺たちか! はいはい、お前とギルは仲良しだもんね。分かってるよ、よく分かってる」
「いい加減にしろ。自分の仕事が上手くいっていないからといって、俺に八つ当たりするのはよせ、大人げない」
「お前ら兄弟が水入らずで過ごせる休暇に俺なんかが付いて行ったって、どうせ邪魔者扱いされておしまい。せいぜい楽しんでこいよ。俺はその間、あの生臭い調理場で脂ぎったおっさん共と楽しくお仕事してるから」
 非難がましい恋人の発言に、ルートヴィッヒはいささか面倒臭そうに溜息を吐いた。こういった何気ない動作の一つ一つがフランシスの自尊心を傷つけていることに、彼はまったく気が付いていないようだった。
「何度も言うようだが、妙な勘繰りはやめてくれ。お前は兄弟がいないから理解できないんだろうが、家族なんてのはどこも似たり寄ったりだ。俺と兄さんが兄弟以上の仲だというのなら、カークランドとアルフレッドはどうなる? あいつらが互いに愛を囁き合ってるとでも? 勘弁してくれ、気持ちが悪い」
「どうだかな」
 フランシスは投げやりに吐き捨てると、自分よりもいくらか背の高いルートヴィッヒのうなじに衝動的に噛みついた。彼は歯並びのよい前歯でその薄く柔らかな皮膚を挟み込んだかと思えば、ルートヴィッヒがあっと声を上げる間もなく強く吸い上げた。日焼けしていない真っ白いうなじに小さな赤いうっ血が残った。フランシスは満足げに口元を歪めた。「そりゃギルベルトはお前にこんなこと出来ないだろうけど」
 並外れた兄弟愛の持ち主であるルートヴィッヒに何かしらの不満や不信感を覚えたとき、彼はこうして自分の気持ちを落ち着かせることにしていた。自己満足というやつに限りなく近いが、ギルベルトとルートヴィッヒの親密すぎる関係に対する、これは彼なりの抵抗だった。
「満足したか?」
 ルートヴィッヒはことさら呆れたように言うと、奪い取った手帳を無造作に鞄へ突っ込んだ。
 兄のギルベルトにしか出来ないこともあるだろうが、自分にしか出来ないことだってある。フランシスはそう前向きに考えることで、自らの立場に希望を見出そうとしていた。
 彼はグラスにワインを注ぎ足し、ふらふらと室内を歩き回った。開け放たれた窓から流れ込んでくる、刈りたての芝生が発する自然特有の香りに鼻腔を刺激された。
「維持費、大変じゃない?」
「……なんだって?」
「あ、いや、庭のこと」
 というのも壁に掛かってる昔の写真と比べて、今はほとんど手入れをしてないように見えたのだった。
「庭? 遺産で十分賄える範囲だから、さほど負担にはなっていないが……」
 が、フランシスは黙っていることにした。
 物言いたげな恋人の視線に多少引っ掛かりを覚えたらしいルートヴィッヒだったが、思考を切り替えて旅支度を進めた。最近は口付けさえもめったにしてくれなくなった恋人の後ろ姿を横目に、フランシスはキッチンの隅に置かれた冷蔵庫を開けた。この口寂しさは残念ながら、ワインだけが原因ではなさそうだった。そして彼は瓶詰の黒オリーブを掴むと、勝手知ったるとばかりに戸棚からフォークを取り出すのだった。
 飴玉のように口内でオリーブを転がしながらフランシスは再び冷蔵庫のなかを物色し始めた。特に深い意味はなかったのだが、彼はある分厚い塊の乗せられた大皿を見つけてしまった。
「……これなに。パンケーキ?」
「ああ、兄さんが今朝作ったんだ」リビングへ戻ってきたルートヴィッヒは彼の問い掛けに対し、どこか愛おしさを含んだ苦笑を浮かべてみせた。「量りが壊れていたことに気付かず、大量に作ってしまったらしい」
 去年の四月のことだった。フランシスが住居としているカルヴァー通りの屋根裏にて、二人でチェスに興じたことがあった。チェスに関してはいくらか腕に覚えがあったフランシスは、この勝負に自分が勝ったら今夜は自分が“上”になるという若き恋人の条件を受け入れ、ゲームに臨んだ。そして勝負の終盤、すでにしこたまワインのボトルを空にしていたフランシスは盛大にチェス盤をひっくり返した。それが彼の負けを阻止するための暴挙であったことは明白だったが、ルートヴィッヒはといえば「大人げないぞ、フランシス」と口元に指を当て、くつくつと肩を揺らしていた。
「パンケーキ……いつもはお前が作らされてるのに、今日はギルベルトが自分で作ったんだ?」
「そういうことだ。このところ俺が毎日忙しくしているせいか、兄さんも少しずつ家事を手伝ってくれるようになって助かってる。お世辞にも上手いとは言えないが、親父も料理の腕に関しては似たようなものだったからな」
「……味見、してもいい?」
「構わないが、お前の口に合うようなものじゃ――」
 フランシスはある衝動に駆られた。彼はルートヴィッヒの返答を待つことなく、手にしていたフォークをパンケーキに突き刺すと大きく口を開けた。ナイフで切り分けもせず、その不格好なパンケーキを一思いに口へ押し込んだ恋人を見てルートヴィッヒは目を丸くした。そしてフランシスはしばし黙々と顎を動かし続ける……かのように思われたが、数十秒後が経過したところで、彼は流し台に向かって汚らしく咀嚼された口の中のものをすべて吐き出してしまった。
「おい、平気か! 一気に口に入れるからだ!」
 こうした瞬間に見せるルートヴィッヒの他人行儀な優しさはフランシスにとって苦痛でしかなかった。慌てて駆け寄ってきたルートヴィッヒが、流し台に顔を押し込む恋人の背をさすろうと腕を上げた時だった。
「ひっでぇ味、食えたもんじゃない」
 フランシスはわざとらしく、極めて忌々しげに鼻を鳴らした。「家畜の餌にもならねぇよ、こんなの」
 調理台に置かれていた例のパンケーキが山積みになった皿を荒々しく掴むと、彼はそれを流しにぐしゃりとねじ込んだ。
「こんなもん大切に保存してるなんて馬鹿げてる」
 ルートヴィッヒはそれから彼が気を失うまで、まるで何かに憑り付かれたかのように顔を殴り、腹を蹴り続けた。ルートヴィッヒが兄のギルベルトに対していかなる種類の感情を抱いているか、その真実を所詮は“他人”に過ぎないフランシスが見つけ出すことはおおよそ無理な話だった。フランシスが意識を失う瞬間に把握していたほんの確かな事実はといえば、この若者が自分に対してなんの愛情も、これっぽっちの執着も持っていないという虚しい現実のみだった。一時の気の迷いであったとしても彼を優しく抱擁し、低い声で愛を囁きかけてくれたルートヴィッヒの姿はもうどこにもなかった。



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