ヴェルヌイユは汚れていたシャツを着替え、寝室からコートを取ってきたのち、ソファに寝転んで年代物の図鑑を眺めていたブルーノに外出を告げた。「帰りは夜になると思う。一人で平気か?」
「心細くて泣いちまうかもな」
 ブルーノは図鑑から視線を反らすことなく白々しい言葉を返した。視界にちらつく蜂蜜色の前髪を煩わしげに手で払うばかりで、あたかも勝手にしろと言いたげだった。ヴェルヌイユは拗ねた子供をあやす父親のごとく、友人の頭をぽんぽんと叩くのだった。洗い立ての髪が掌にしっとりと馴染んだ。「そう機嫌を損ねるなよ。これで週末にはパンとチーズが手に入るんだ、我慢してくれ」
「分かってる、パンとチーズのためなら仕方がない」
「卵も貰えるぞ」
「はいはい」
 笑いながら相槌を打っていたブルーノだったが、ふと真顔になったかと思えば冷たく言い放った。「でも、あの子供が好きになれない」
 ヴェルヌイユはそっぽを向いてしまったブルーノのことが急に愛おしく思え、拗ねてしまった背中に覆い被さった。驚いたブルーノがとっさに後ろを振り向いたところで、彼はその薄い色をした唇に口付けを落とした。ヴェルヌイユはブルーノの体が硬直していることに気付いたが、知らんふりをしてもう一度口付けた。
「お前も一緒に行っていいか、ファニーに聞いてみようか?」
「それは無理だ」ブルーノはわずかに赤らんだ頬を隠すかのように俯いた。「あんた以外の人に会うのが恐いし……」
「お前がドイツ人だから? パリにもドイツ人はたくさんいたが、誰も敵意なんて持っちゃいなかった」
「無理なものは無理だ」
「頑固だな」
「そうなんだ、おれは頑固なんだよ。知らなかったのか?」
 ブルーノは彼の頭をひっつかむと、噛みつくような口付けをした。薄い唇のあいだから覗く不揃いな歯がヴェルヌイユの目を釘付けにした。彼は愛情を言葉にすることを無意味な行為だと考えていたが、それでも自分の胸に芽生えた感情に嘘はつけなかった。すでに幾度か体を重ねてはいたが、その抗うことのできない感情は日増しに強くなるばかりだった。ブルーノは自分のことをどう思っているのだろうか。
「排水溝の修理はあとでちゃんとやっておくから、安心して行ってこいよ」
「ありがとう、お前は本当に頼もしいな」
 しかし、彼には臆病な面があった。ブルーノの生い立ちや仕事などの私生活に関してもそうだった。いつまで経っても、けっきょく肝心なことは聞けないのだった。ブルーノが機嫌を損ねるから聞けないのではない、その事実がヴェルヌイユにとって好ましくないものであるかもしれないから、いつまで経っても突っ込んで聞くことができないのだ。
「おっと、煙草を忘れた」
「吸いすぎは良くないぞ」
「わかってる」
 彼は寝室の枕元に置きっぱなしだった煙草の箱を取りに戻った。品薄の戦時下ということもあり、最近彼が吸っているのはもっぱら代用煙草だった。吸っていてさほど爽快感はなかったが、ないよりはましである。ヴェルヌイユはそれらをズボンのポケットに押し込んだ。サイドテーブルに置かれた写真立てにはイザベルとヴェルヌイユ、エミールの三人で撮った写真が飾られていた。彼は深いため息をついた。ちょっとそこまで出掛けてくるよ、と彼は写真に向かってひとり語りかけた。



            
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