彼は香りのよいハーブティーのたっぷりと注がれたグラスをブルーノに差し出した。ありがとう、とブルーノはそれを受け取った。彼は舌先でちびちびとミントの味を確かめながら、またしても次のような問いかけをしてきた。「じゃあおれがあんたの目の前で、誰かに殺されそうになっていたら? 同じようにおれを助けた?」
「そのときの状況にもよるだろうけど……」彼の返答は歯切れの悪いものだった。「いまだったら助ける。でも二ヶ月前だったら、おれはまず見殺しにしていたよ。赤の他人を救うために自分の命を投げ出そうだなんてやつはそうそういるもんじゃないだろう。もっとも、殺されそうになっているのが女性や子供であれば、多少は心が揺らぐかもしれないが、いや、だけど、それでも……」
「ってことは、おれが女か子供なら助けてくれるのか」ブルーノはぷっと吹き出し、白い歯を見せて笑った。「それってすごくあんたらしくて、おれは好きだよ」
「そりゃどうも」
 作りかけのかぼちゃのスープが入った鍋を覗き込んでいたヴェルヌイユのそっけない返答を受けて、ブルーノはふたたび笑い出すのだった。
「ところで、今日はもう村へは行かないんだろ?」
「ああ、行かないよ。どうしてだ?」
 別に、とブルーノは何か思うところがあるかのように呟きながら、それまで腰を落ち着けていた年代物の肘掛け椅子から軽やかに立ち上がった。艶やかな質感をした絹の部屋着が老朽化した天井に白い光を反射させた。ヴェルヌイユは身近な文房具を使用し、教師らの授業をよく妨害していた少年時代をぼんやり思い出した。退屈な授業を受けているときなどは、特によくやっていたものだった。もちろん教師らはすぐにこの妨害者を突き止め、容赦なく叱り飛ばす。それを見た同級生たちはゲラゲラと、だがいま思い返すと無邪気に笑っていた。
 右足のぎこちなさなど微塵も感じさせない足取りで、ブルーノは年代物のくたびれた棚から騒音を巻き散らしているラジオに近付いた。先ほどまで心地良く流れていたエディット・ピアフの《アコーディオン弾き》が終了し、放送はすでに通常の報道番組へと切り替わってしまっていた。ブルーノは自分に勝るとも劣らない気難しい友が戦況報道だとか、外の世界の現状を伝えんとする生々しい番組を極端に嫌厭していることを知っていたので、ほかの番組に切り替えるべくラジオの抓みを適当に回しはじめた。もっとも、最近のヴェルヌイユは欧州諸国の戦況をできる範囲で把握しておこうと、村へ足を運ぶたびに新聞を購入したりなどしていた。が、ブルーノの祖国であるドイツと彼の祖国であるフランスが敵対しているだけに、その事実はなかなか言い出しにくかった。
 ヴェルヌイユがクッキーの封を開けている横で、ブルーノは受信した周波数から流れてくる古典派音楽にめずらしく反応を示した。
「ベートーヴェンだ」
 その懐かしむような口振りに、ヴェルヌイユは思わず顔を上げた。新旧を問わず、幼い頃からありとあらゆる音楽に慣れ親しんできた自分とは違い、ブルーノが知っている曲といえば流行歌や陽気なアメリカ音楽ばかりだったので、ヴェルヌイユがこうした驚きを示すのは無理からぬことだった。音の悪いスピーカーから溢れてくるヘ交響曲第7番、第一楽章は、ベートーヴェンの作品の中でも《月光》に並び、ヴェルヌイユが好んでいた作品だった。大学時代、愛すべき悪友らと共にモンマルトル界隈の酒場に繰り出しては店内に置かれたピアノを占領し、派手な乱痴気騒ぎをしていたものだった。一介の法学生に過ぎなかったヴェルヌイユの悪友らはみな印象主義の優雅で感傷的なピアノの独奏曲以上に可憐なリュシエンヌ・ボワイエ、マレーネ・ディートリッヒ、ガーシュウィンのアメリカ音楽、流行りのジャズなどを好んだし、彼らはヴェルヌイユにもっぱらそういった流行歌を演奏するようせがんだ。勉強そっち退けで毎晩派手に遊び回っていたせいで、友人たちのうち二人が同じ学年をふたたび繰り返するはめになったのも、いまや過ぎし日の苦い思い出である。



            
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