「そうなのか? あんた、頭が悪そうには見えない。大学を卒業したと言っていたじゃないか」
「根本的に不真面目なんだよ。教師の話をろくすっぽ聞かず、考えごとばかりしていた。おかげで哲学の成績だけはずば抜けて良かったものの、ほかは最悪だった。父さんによく説教されたよ、おれは兄弟のなかでもいちばん出来が悪いって」
「だけど、フランスにも試験があっただろう、バカロレアだかなんだかっていう……その結果は?」
「父さんが雇った家庭教師のファブリスやポール、サラたちが週に三回、おれの勉強を手伝ってくれるようになったんだ。それで試験までの二年間はそこそこ勉強したから、バカロレアの結果は悪くなかった。でも彼らがいなかったら、おれはいまごろモンマルトルでその日暮らしの生活を送っていたかもしれない。特にファブリスは人間的にも尊敬できる、すばらしい先生だったよ。彼をおれの父さんに紹介したのはイザベルでね、彼女はおれの性格を知り尽くしていたから、ファブリスがおれの意欲を高めてくれると確信していたんだ。実際、彼女の目論みは上手くいった。エドガーとイザベルの結婚を父さんがまるで反対することなく祝福してくれたのも、この一件でイザベルの株が上がったからじゃないかな」
「ちょっと待ってくれ、イザベルはあんたの恋人じゃないのか?」
 自分から話して聞かせたことはなかったが、ヴェルヌイユのうわごとによく出てくる”イザベル”という女性が彼の元恋人であるという認識はブルーノにもあったらしかった。しかし、兄の妻であるイザベルを恋人と呼んでも良いものだろうか? ヴェルヌイユにとって、イザベルはあくまでもイザベルであり、それ以外の何者でもないのだった。
「それはお前の誤解だよ」いい機会なので、ヴェルヌイユは正直に打ち明けることにした。「イザベルはおれの兄貴の嫁さんだから、おれにとっては義理の姉にあたるんだ」
「“だめだ、混乱してきた”」ブルーノはドイツ語で呟きながら、あからさまに頭を抱えた。「イザベルはあんたの姉貴だったのか。ということは、家族?」
「そういうことになる」
「“これだからフランス人ってやつは……”」やれやれ、とばかりにブルーノは首を左右に振った。「ところでフランソワ、おれは腹が減ってきた。なにか作ってくれよ」
 過ごしやすい気候が眠気を誘うなか、先ほどからしきりに腹部をさすっていたブルーノは尊大な口振りで命じた。生まれ育った環境に関しては頑なに口を閉ざし続けているブルーノだったが、包丁を握るその危なっかしい手付きや、家主が作った料理を容赦なくこき下ろす様子からしても、彼は裕福な家庭で甘やかされて育ったに違いない、とヴェルヌイユは踏んでいた。
「最近になって気付いたが、お前だって少しくらいは料理ができるんだろ。自分で作ったらどうなんだ、おれに任せきりにしないで」
「そんなことしたらあんたの仕事がなくなっちまうだろ」
 気性の穏やかなヴェルヌイユでなければ、このドイツ人はとっくに家を追い出されていたことだろう。臨時の語学教師は例文の羅列したノートをそっと閉じた。「わかったよ、なにか作ろう。それはそうと、いまさっきおれが言ったこと、本当に理解できたか?」
「もちろんさ」
 愚問であるとでも言いたげにブルーノが頷くと、正面に腰掛けていた教師は呆れたような笑いを浮かべた。彼の生徒は授業態度こそ悪いが、成績に関してはすこぶる優秀なのだった。ヴェルヌイユは組んでいた足をほどき、必要最低限の食器が納められた戸棚へと足を向けた。



            
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