かような決意を固めてからというもの、イザベルが夜な夜な枕元に姿を現し、ヴェルヌイユの心を苛むようなことはなくなった。一週間のうちに何度かは彼女がすっと姿を現したりもしたが、それでも以前ほどヴェルヌイユの涙腺を刺激することはなくなった。あれだけ引きずっていた彼女の死も一旦意識が別の方向に集中してくれさえすれば、一時的にではあるが、思い出さずにいられるようになったらしかった。ヴェルヌイユは一種の罪悪感を覚えながらも、これは大いなる前進だ、と自分自身に言い聞かせた。そうでもしなければ、彼は残された人生すべてを追懐のみに捧げなくてはならないのだ。が、いつかひょっこりとイザベルが戻ってくるのではなかろうかという思いだけは唯一捨て去ることができかね、やはりこの淡い願いに関しては以前ほどではないにしろ、あいかわらず頭の片隅に居座り続けていた。というより、ヴェルヌイユとしてもこれだけは譲ることができなかった。そう簡単に割り切れるものじゃない。愛する女性が幼かった自分を励ますために発した一言は、肉体こそ一人前の大人に成長したヴェルヌイユをあの頃と同様に慰めるのだった。
 この土地を離れるべくヴェルヌイユが手配を開始してからというもの、二人の生活は心持ち慌ただしさを伴い始めた。ブルーノは頻繁に外出するようになった彼の行動に違和感を覚えずにいられなかったが、その無防備な瞳がヴェルヌイユの思惑まで読み取ることは叶わず、同行者の一人として数えられるブルーノの預かり知らぬところですべての手配は抜かりなく進んでいくのだった。
「このカメラ、どこで手に入れたんだ?」
 独り善がりの男がどこからともなく調達してきた写真機に、ブルーノは興味津々とばかりにソファから飛び起きた。変化の少ない生活を送ってはいるが、めずらしい出来事というのも時折訪れるもので、この日のヴェルヌイユはちょうど身分証用の写真を撮影しようとファニーからカメラを借りてきたところだった。
「ああ、これはおれの持ち物じゃない。ファニーが貸してくれたんだ」
「ライカのカメラはものすごく高いんだぞ」
「そうなのか?」
「ちょっと貸してくれ」
「くれぐれも丁寧に扱ってくれよ」
 ヴェルヌイユがカメラを手渡すと、ブルーノは少年のように目を輝かせて喜んだ。すごい、本物だ、などと歓声を上げているブルーノに対して、そのカメラの価値を知らないヴェルヌイユはたいした興味もなさそうな顔で戸棚の引き出しから手帳と便箋を取り出した。マルセイユに住んでいる叔父、ジャン=フレデリックに手紙を出すためである。ジャン=フレデリックは彼の兄であるテオドールとは異なり、柔和で前衛的な気質の持ち主だった。絵の才能にも恵まれており、真っ白いハンカチに漫画を描いてはヴェルヌイユによくプレゼントしてくれたものだ。
 さて、どういった文章をしたためるべきか。叔父とはもう随分長いこと会っていない。イザベルの葬儀の前日に顔を合わせて以来だ。ヴェルヌイユが思案に暮れていたところ、カシャッ、とカメラのシャッターが切られた。何事かと顔を上げれば、カメラを構えていたブルーノがこう叫んだ。「スパゲティ!」



            
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