視界を遮らんと溢れ出してくる涙の冷たさにはっと目を覚ましたとき、すっかり寝こけていたと思われる自分の目の前にはいつかの午後と同様、ブルーノの不安げな細面が間近に迫っていた。彼は”既視感”という心理現象について、心理学者のエミール・ブワラックではない、つい先ほどまで同じ食卓を囲んでいた方のエミールから説明を受けた際のことを思い出した。いましがた瞼の裏で繰り広げられていた光景こそヴェルヌイユが勝手に創り出した幻だったが、ソファに横たわった自分を覗き込んでいるブルーノにしても、この一ヵ月そこそこではなくもっと以前、遠い過去にどこかで遭遇したことがあるのではなかろうかと錯覚させるような懐かしさを持っているように思われた。
 彼はブルーノの細い腰に両腕を巻きつけた。相手の体が強張るのを感じながらも、ヴェルヌイユはいささか強引に彼を捕らえたまま放そうとしなかった。ブルーノの表情は確認できなかったが、きっとあの戸惑いがちで朴直ない瞳が戸惑いがちに宙を泳いでいることだろう。一見すると世間擦れしているような印象すら抱かせるにも関わらず、謙虚で控え目な素地をも同時に有する、そのころころと変わる純真さに溢れた彼の眼差しをヴェルヌイユは愛さずにいられなかった。当初は紛れもなくイザベルに重ねていた面立ちも、いまやそれらはすっかりブルーノの特質として捉えることができるようになっていた。
「ブルーノ、ブルーノ」と、ヴェルヌイユは呟いた。「どこか遠くへ行かないか、二人だけで。おれたちはこんな場所にいちゃいけない」
「……いちゃいけない?」
 ブルーノはソファに腰掛けながら聞き返した。ぎしり、という鈍い音が室内に響いた。レコードはとっくに停止しており、先ほどからぶつぶつという音をしきりに発していた。
「今度は上手くいくと思うんだ。すべてを一からやり直す。こんな田舎ではなく、しかるべき環境、ニューヨークでもいいし、オセアニアでも、アジアの大都市でもいい。もちろんパリだって構わない」
 彼がなぜそのような考えに思い至ったのか、明確な説明をなしうる者はいないだろう。というのも、彼自身いかんともしがたい啓示に駆られての発案に等しかったし、なにを差し置いてもまずそれらを素早く行動に移すべきであると訴える本能に彼の脳裏は完全に支配されていた。彼の頭のなかにはただひとつの考えしかなかった。この鬱蒼とした森に囲まれた一軒家を離れ、太陽を全身に浴びることのできる新たな土地ですべてをやり直すのだ。かつてのような生活を取り戻したい、愛と喜びに満ちた生活を。
 ブルーノは灰皿の上に置かれた煙草を一瞥した。甘いような、しかし鉄のような、いかんとも形容しがたい独特の悪臭が彼の鼻腔を刺激した。そして彼はふたたびヴェルヌイユに向き直った。目が充血している。
「フランソワ、大丈夫か? 泣いていたのか?」
 女性のように繊細でしなやかな指先がヴェルヌイユのだらしなく伸ばされた後ろ髪に優しく絡みついた。両親から与えられる無償の愛とやらにはとことん縁のなかった彼は、こういった母性に満ちた仕草にどうも弱かった。違和感と安堵とを同時に覚えるのである。イザベルもよくこうして彼を慰めてくれたものだった。



            
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