完全に眠りこけた彼の瞼の裏に映し出された風景は、よくよく考えてみると非現実的も極まりない場面の数々だった。ある晴れた日の午後、兄が購入した新居の食卓を囲むのは家主エドガー、涼しげな短髪を窓から吹き込む風になびかせたイザベル、芸術家のようなだらしない格好をしたエミールと、彼が飼っている白兎、妹のシュザンヌといった、四人と一匹だった。そこへやってくる新たな訪問者こそがフランソワとブルーノの二人で、彼らは家主エドガーからこんな厭味をぶつけられるのだった。「遅かったじゃないか。ぼくらはもうワインを一本空にしてしまったっていうのに、お前のことだ、どうせまたセーヌの露店でレコードだとか古本だとかを漁っていたんだろう」
「さすがはおれの兄貴、よくわかってるじゃないか」
 ヴェルヌイユは兄の小言を適当に受け流し、自分たちのために用意された椅子に腰を落ち着けた。食卓にはエドガーとエミール、シュザンヌとイザベル、そしてフランソワとブルーノが互いに向かい合って座った。
「掘り出し物はあった?」
 イザベルが自分の隣に座ったブルーノに問い掛けると、彼は椅子の脇に立てかけた分厚い紙袋を指で示すのだった。
「ええ、安かったのでつい買いすぎてしまいました」
「ブルーノは手持ちが少ないのにあれもこれも、欲しいものをぜんぶ買おうとするんだ。おれがその場で金を貸してやらなかったら、一体どうするつもりだったのか……イザベル、欲しいやつがあれば譲るよ」
「いいの? ブルーノは不服そうな顔をしているけれど」
「いいよな、ブルーノ、代金を支払ったのはおれなんだ。おかげで財布がすっからかんになっちまった」
「悪かった、明日には全額きっちり返すから」
 二人のやり取りを見ていたイザベルは控えめな笑声を漏らした。「アメリカのブルースのレコードはある? わたし、最近はベッシー・スミスの曲をよく聴いているの」
「ブルース、あったっけ?」
「たしか買ったと思う。試しに聴いてみる?」
「ええ、ぜひ聴かせて欲しいわ」
「いいよ、待ってて」
 一方でエドガー、エミール、シュザンヌの三人は次に開けるワインについて激しい議論を展開しており、エドガーは妻との記念日用に取ってあったシャブリ・グランの開栓を迫られていた。
「ワインの一本や二本、またおれが買ってきてやるから……さあ、ひと思いにやれよ」
 エミールは親友に栓抜きを差し出した。
「そう言ってお前が買ってくるワインはいつだって安物ばかりじゃないか! 騙されないぞ。慎重さに欠けていた過去の自分とはおさらばしたんだ、ぼくは」
「いいじゃないの、兄さん、たかがワインの一本や二本……けち臭いことを言っているとイザベルに愛想を尽かされるわよ」
 この和やかな午後のひと時は夢のなかに生きるフランソワ・ヴェルヌイユにとっては至極あたりまえの光景であるらしく、彼は不思議としっくりくる偽りの現実を漠然と受け入れつつ、斜め向かいに腰を落ち着けるイザベルの唇に目を向けた。エドガーと結婚する以前の彼女はたいてい真っ赤な口紅をこれでもかというほど塗りたくっていたものだが、いまやそれらの習慣はすっかり捨て去ってしまったようだった。
「本来はこうあるべきだったのよね」
 年下の義弟の視線に気付いたイザベルは、遅れてやってきた二人の来客を交互に見遣った。
「本来は?」と、ヴェルヌイユは首を傾けた。
「ええ、そうよ」
 イザベルは頷くと、部屋の隅に置かれた蓄音器にレコードを乗せているブルーノのほうに向き直った。「聞いて、ブルーノ、この子は周りの人間が誰一人として傷つかなきゃいいと思っているのよ」
「いきなりどうしたんだよ、イザベル」
「一見すると外面の良い優男のようにも見えるかもしれないけれど、案外そうでもなくてね。自分の幸せを犠牲にしてでも、すべてが丸く収まるよう取り計らいたいと思っているの。でも、実際はそう上手くいかないわ。そのためにはフランソワがあと三人はいなくちゃならないんだもの」
 そうかもしれない、とヴェルヌイユは思った。しかし、誰もが満足いくよう取り計らうためにはそれなりの意志と犠牲が必要であるという事実に、彼はいくらかの人生経験を積み、最近になってようやく気づくに至ったばかりだった。
「この子と仲良くしてやってね、ブルーノ。彼が子供の頃からの付き合いだからというせいもあるけれど、わたしはフランソワのことが心配でならないのよ。めったなことがないかぎり自分の胸のうちを明かさないから」
 彼女はお気に入りの赤ワインの入ったグラスで円を描きながら、神妙な顔をしているドイツ人に向かって声を低くして言った。「ここだけの話、彼はいつか胃を悪くすると思うわ」
 ヴェルヌイユは自分が子供扱いされているような気がして、なんだか急に恥ずかしくなった。彼は無性に煙草が吸いたくなり、胸ポケットに手を伸ばした。ブルーノが流し始めたブルースのレコードにしばし耳を傾けていたイザベルはといえば、これまた嬉しそうに手を叩くのだった。
「まあ、ベイズン・ストリート・ブルースじゃないの。わたしもこれと同じレコードを持っているわ。名曲よね」
 ヴェルヌイユは目元になにか熱い衝動が込み上げてくるのを感じていた。イザベルはいつも通り、白い歯を見せて彼の目の前で笑っている。しかし、彼女の輪郭は次第にぼやけていった。いや、彼女の輪郭だけではない、周囲の景色が徐々に霞んでいく。ヴェルヌイユはとうとう、これが夢であるということに気づいた。だが、まだ夢から覚めたくない。彼は必死に意識を食卓に集中させたが、その努力が実ることはなかった。夢はあっという間に消えてしまった。



            
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