正午を過ぎた。成人男性の足で片道二十分の距離を往復し、肉体的にも精神的にもすっかり疲れ切っていたヴェルヌイユはたどたどしい足取りで玄関の鍵を開けようとした。しかし、扉が開かない。彼はもう一度、ゆっくりと鍵を回してみた。小気味良い音を立て、脆い鍵が解除された。どうやら鍵を掛けずに外出してしまったらしい。
 彼は一刻も早く自分の両腕を楽にしてやるべく、静まり返った居間の食卓机に荷物を下ろした。その衝動で煙草が三箱ほど床に落下したが、彼は何よりもまずブルーノの姿が見えないことに対する疑問を抱いた。数週間前までのブルーノに関して言えば、一人置いてきぼりにされようものなら寝室のカーテンを閉め切っては孤独に肩を震わせていたものだったが、近頃はもっぱら居間でレコードを聴いたり、机に向かって書き物をしたり、ソファで眠りこけているのが常だった。にも関わらず、姿が見えないとはどういうことだろう。
「ブルーノ?」
 寝室から微かな物音が聞こえたので、ヴェルヌイユは声を上げた。「そっちにいるのか?」
 傷みやすい生肉やチーズなど地下で保存しておく食料の分別を行いながら声を張り上げるヴェルヌイユだったが、返答はなかった。不審に思った彼はひとまず作業の手を止め、寝室の扉を叩いてみることにした。鍵はかかっていなかった。一体どこへ姿を消してしまったのだろうか。
 扉を開けると、部屋の隅に置かれたラジオが不安定な電波を受信している光景が目に飛び込んできた。物音の原因を突き止めたヴェルヌイユはその騒々しいラジオを黙らせるべく手を伸ばすも、流れてくる音声に何気無く耳を傾けた。比較的ドイツとの国境近くに位置していると言えるこの付近では、ラジオの周波をほんの少し調整するだけで、隣国が垂れ流している公共放送を容易く傍受することが可能であったことを思い出したヴェルヌイユは、音の悪い拡声器から断片的に発せられる、あの高圧的で荒々しい言語を僅かなりとも聞き取るべく、繊細な作りをしたつまみを注意深くいじり始めた。そしてある程度安定した電波を受信し始めたかのように思われたところで、彼は重大な問題点に気付くのだった。悲しいかな、自分はドイツ語などさっぱり理解できないではないか。彼はふたたびつまみをいじり始めた。が、拡声器から自国が誇る偉大な作曲家、カミーユ・サン=サーンスの《白鳥》が聴こえてきた途端、彼は今度こそ間違いなく電源を切らんと、慌ててラジオの電源を引っこ抜いた。《白鳥》はイザベルとの思い出がたくさん詰まった曲だった。



            
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