ヴェルヌイユはポワティエ夫人の小さな商店をあとにし、彼女が教えてくれたロランの酒場とやらへ足を向けてみることにした。二人分の生活物資が詰め込まれた麻の袋からは収まり切らなかったセロリの葉と葱が飛び出ており、偶然近くを通りすがった母子はといえば、この大所帯の成年男性の後ろ姿を甚だ不審な目で見つめるのだった。ブルーノの食欲も正常に戻りつつある近頃は以前の三倍ほどの速度で食材が消費されており、週に一回の買い出しでは追い付かなくなっていた。
 彼はこの炎天下において、初めて自動車の有り難みに気付いた。ヴェルヌイユはとにかく歩くことが好きだったので、パリに住んでいたころも電車や自動車を使うことはめったになかった。どこへ行くにも徒歩か、もしくは自転車を使うことにしていた理由は、彼にとって空気や風を肌で感じることは生きる上での喜びの一つだったからである。もっとも例外がないわけでもなかったが、それでも彼が一九三七年に父の遺産で購入した美しい青の国産車は週末、蚤の市で家具を購入する際や、田舎での休暇を楽しむ際にイザベルや友人らを現地に連れて行くためにのみもっぱら使用された。飽きっぽさに関しては折紙付きのヴェルヌイユの目に“自動車”が魅力的なものとして映ったのは、購入当初の一、二ヶ月間に過ぎなかった。
 ガソリンが手に入りそうであれば、次からは庭に停めたままになっている自動車で買い出しに来よう、と彼は思った。車であれば、足が完治しきっていないブルーノも一緒に連れて来られるかもしれない。
 広々とした青く澄んだ空から降り注ぐ日射しが徐々に強くなってきていることを感じ取りつつ、彼はブルーノとの今朝のやり取りを思い出すのだった。なにか足りないもの、欲しいものはないかと尋ねても首を左右に振るばかりであったブルーノの初めての要望なので、彼はなんとしても扇風機を手に入れたかった。
「フランソワ! ちょっと、フランソワ、そこのあなた! こっちを見て!」
 ゆるやかな坂道に咲く鮮やかなコクリコを眺めながらもせっせと歩いていたヴェルヌイユがもう少しで坂を下りきらんとしたところで、かような叫び声を背後から投げつけられた。振り向いた先にはファニー・デプレットがいた。小型車から身を乗り出し、満面の笑みでこちらに手を振っていた。ヴェルヌイユは額から流れ落ちる汗を服の袖で拭った。
「これってすごく嬉しい偶然だわ!」
「ファニーじゃないか」
「こんにちは、フランソワ。ご機嫌いかが?」
「いいよ。きみは?」
 運転席に座っている中年女性と目が合い、ヴェルヌイユは彼女に軽く会釈した。その身なりからして、おそらくデプレット家の家政婦であろうと思われた。女性はヴェルヌイユの挨拶などまるで気が付いていないといった風を装い、助手席に座るファニーを窘めた。「お嬢様、道草している時間はありません。ただでさえ二時間も遅刻しているのですから……」
「わたしも元気よ、ありがとう」
 ヴェルヌイユは背後から迫ってくる中古車の窓から服の裾を引っ張られ、思わず体勢を崩しそうになった。ファニーはそのようなこと気にも留めず、一方的な調子で会話を進めた。「あたしは今日寝坊してしまって、これから学校へ行くところなの。あなたは食料の買い出し? ずいぶんと大荷物ね。食糧が足りないのなら、うちに余っている分を持って行ったのに……水臭いわ!」
 元々低血圧であるというファニーはその明るい口調に反して、心なしか顔色が悪いように思われた。ヴェルヌイユ同様、朝に弱い体質なのかもしれない。彼女は続けた。「ところで、あなたの家はこっちとは逆方向でしょう? しかもなに、あなた、これ……すごい荷物じゃない。かなり重そうだけど、大丈夫なの? 道端で倒れたりしないでしょうね」
「心配してくれるのはありがたいが、そこまで軟弱じゃないから大丈夫だよ」
「で、そんな大荷物を抱えてどこへ向かおうっていうの?」
「ロラン氏の店に向かう途中なんだ」
「あら、めずらしい」
「ちょっと探し物をしていてね」
「なにを?」
「扇風機を」
「あなたっておかしいのね、ここら辺の田舎者は、扇風機なんて大層なものは持っていないわ!」ファニーは一体なにがそんなに愉快なのだろうか、さも大袈裟に笑い声を上げるのだった。「それなら新品同然のものが倉庫に一台あるから、あとで持って行ってあげる。遠慮なんかしないでよ、フランソワ、あたしたちは友達なんだから、困ったときはお互いに助け合わなきゃ」
「いけません、お嬢さま、勝手なお約束をなさっては! 先日の件にしましても、旦那さまはあれほど……」
 そう言いかけた中年女だったが、助手席の娘が放った一言によってすぐさま口を噤むのだった。
「うるさいわ、サンドリーヌ」
 家政婦を一喝するファニーは幼いながらも、気に入らない相手を一瞬にして押し黙らせるだけの威圧感を持っているように思われた。睨みつけられた女は途端に弱々しく肩を震わせ、こうべを垂れた。「申し訳ございません」
「あんたがお父様に告げ口しなきゃ済む話なんだから、ごちゃごちゃ言わないでくれる? あたしは彼と話しているのよ、そこへ割り込んでくるなんて、あんた何様のつもりなの? 使用人の分際で、あたしに意見してくるなんて」
「ファニー、それはあんまりな言い方じゃないか?」
「いいのよ、こんな役に立たない女……きつく言ってやらないとすぐ調子に乗るんだから。聞いているの、サンドリーヌ、少しは立場をわきまえなさいよ」
 ヴェルヌイユは一連の短いやり取りを間近で目撃し、ファニーという少女に底知れぬ恐ろしさを覚えるのだった。
「ああ、それでフランソワ、扇風機はあたしが届けるから安心してちょうだい。こう暑いと扇風機のひとつも欲しくなるわよね」
「ありがとう、ファニー」
 彼はぎこちなく微笑んだ。運転席のサンドリーヌは俯いたままだった。
 ヴェルヌイユが幼少期を過ごしたパリ郊外の屋敷にも常に四、五名の使用人がいたものだが、幼い頃の彼にとって使用人は家族も同然だったので、この運転手を虫けらのごとく扱うファニーの態度はおよそ理解できかねた。
「夕方にでも扇風機を届けさせるわ」
 とはいえ、ここは素直に彼女の厚意に甘えておこう、とヴェルヌイユは思った。ロランの店までの道順を教えてくれたポワティエ夫人には悪いが、言われてみると確かに扇風機が手に入る場所などこの村にあるとは思えなかった。



            
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