午後からはまた一段と気温が上がるに違いなかったので、ヴェルヌイユは午前のうちにすべての買い出しを済ませるべく自宅前の樹林を早足で抜けていた。森と呼ぶには規模が小さく、林と呼ぶには木々が密集しすぎている気がしがなくもなかったが、この一帯はヴェルヌイユの生家周辺を覆い尽していた都会の中の雑木林とあまりに相似していた。ブナ、クヌギ、ナラ、トリネコ……もっぱら過去を懐かしむばかりの日々を送っていた彼にしてみれば、この小さな森は並々ならぬ安らぎを感じる場所のひとつだった。彼は生命力に満ちた新緑の雑草をかき分け、足場の悪い獣道を進んだ。
 ロブリーユ・ラ・フォレの村には日々の生活を送っていく上で不便を感じさせることのない十分な数の商店と、小さな宿屋が二軒、カフェや料理屋が合わせて五軒ほどあった。中世の頃から残る古めかしい町並みは洗練されたパリに比べるとずっと薄汚れているものの、夏らしい鮮やかな色をした花々が広場から小道、軒先、窓辺など至るところに植えられており、木組みの家々の外観には見慣れない紋様が多く見られた。黒死病が流行した一時期は町全体が廃墟同然の有り様と化したこともあったそうであるが、わずかに傾いている家並みや彩り豊かな草木に恵まれた田舎町は近郊の村々と比較してもまた特別な味わいがあり、ファニーによると宿屋を利用するうちの大半が芸術家で、残りは旅行者、もしくは学者であるということだった。
「こんにちは、ポワティエ夫人」
「ああ、旦那さんか、いらっしゃい」
 ヴェルヌイユは週に一回の頻度で足を運ぶ《ペール・ポワティエ》で食品や酒、煙草などを買い揃えているのだが、やわらかそうな脂肪を顎にたっぷりとぶら下げた店の女主人はこの気味の悪いパリっ子をとことん毛嫌いしていた。最初の二、三回こそ訳有りで越してきたと思われるヴェルヌイユの暮らしぶりを気に掛けてくれていたものだったが、彼は夫人がどれほど好意的に接しようと死んだ魚のような目で始終俯いているばかりだったので、とうとう愛想を尽かされてしまった。彼女にとって、ヴェルヌイユは不愉快な客そのものだった。が、村の誰よりも金払いの良いヴェルヌイユが大切な常連であることに変わりはないので、彼女は店の利益を上げるためだけに淡々と商売を行うのだった。
「いつもので良いんだろうね?」彼女は気だるげに言った。「食料、飲み物、日用品……」
 ヴェルヌイユの答えを待たずして、ポワティエ夫人は麻の袋に品物を詰め込み始めた。無愛想な上客は食糧不足によって品数の薄くなった店内をきょろきょろ見回しながら控え目に言葉を発した。
「いや、いつもの倍は欲しい」
 夫人は作業の手を止めた。「珍しいこともあるもんだね。客でも来ているのかい」
「親しい友人が滞在しているんだ」
「だからと言って、そりゃ難しい相談だよ。ただでさえ食料や日用品の不足が深刻化してきているんだ、うちを利用する客はあんただけじゃないんだから」
 貪欲なまなざしを向けられながらも、ヴェルヌイユはあくまで冷静だった。彼の祖母はポワティエ夫人にそっくりな性質を持った女性だったので、夫人の言わんとしていることはすんなり理解できた。
「わかった、すべて合わせて倍の値で買い取るよ」
 さも愉快そうに口元を歪める夫人を見て、分かりやすい女だ、とヴェルヌイユは思った。
「ところで、おかみさん」
 勘定を抜かりなく済ませたところで、彼はたったいま思い出したかのように言った。「扇風機を売っている店を知らないか?」
「扇風機? 扇風機だって?」
「ああ、この暑さに友人が参ってしまっていて……扇風機を欲しがってるんだ」
「この小さな村に扇風機を売っている店があるかって? ないよ、そんなもの。あるわけないだろう。そんなこと、あんた、ここに住んでいるなら誰だって分かることだと思うけどね」
 ポワティエ夫人はそう捲し立てたものの、ヴェルヌイユが表情を暗くしたのを見兼ね、丸々と膨らんだ麻の買い物袋を手渡しながら怒ったように言った。「あたしは電化製品には詳しくないが、どうしても欲しいって言うんなら、ロランの店へ行って聞いてきな。暇を持て余している亭主連中がいるはずだからさ。ただし期待はしないことだね」
「わかった、ありがとう」
「ちょいとお待ちよ、ロランの店の場所は知っているんだろうね?」
 男が首を左右に振ると、彼女は腹立たしげに舌打ちするのだった。「兎の看板のかかった店だよ」