翌朝、ヴェルヌイユは自分の隣で安らかな寝息を立てるブルーノを残し、そっと寝室を離れた。後悔はしていなかったが、昨夜の行為が最善の選択であったとは到底思えなかった。ブルーノはいつかここを離れるだろう。これはヴェルヌイユ自身も認めるところだったが、心を許すことのできる身内や親友に恵まれてこなかった彼の依存性はいささか病的であり、それはイザベルが良い例だった。別れは耐えがたい。これ以上の深入りは、ヴェルヌイユにとっておおよそ賢明ではないように思われた。
彼は洗面台で顔を洗ったのち、朝食の支度をするべく地下の貯蔵庫へと足を向けた。冷蔵庫のない前時代的な生活を送っているヴェルヌイユにとって、この地下室は重宝する存在だった。ところでこの小さな一軒家は平凡すぎる佇まいに似つかわしくない、どこか風変わりなところがあった。アトリエにしても屋根裏にしても、子供の頃に憧れた秘密基地のような趣を感じさせるのである。特に地下の貯蔵庫は驚くべきもので、台所の隅に置かれた本棚のいちばん下の隅にある板を足で踏みながら横に動かすと、地下へと続く階段が出現するという仕掛けになっていた。ヴェルヌイユはこれを初めて目にした際、柄にもなく「ここにしよう、イザベル! 買わないとあとで絶対に後悔する」と興奮気味に叫んだものだった。彼は限界まで本が詰め込まれた重量感ある扉を横にすべらせ、冷たい石の階段を注意深く下りていった。木箱から野菜と卵、バゲットを片手に再び階段を上がっていこうとしたが、思うところあって、ふと地下内を見回した。石の壁で四方を囲まれ、窓がなく、肌寒い空気が満ちるこの薄暗い貯蔵庫はまるで中世の牢獄を思わせる佇まいを持っている。人骨の一本や二本、落ちていたとしてもおかしくはない。もしもブルーノの身に危険が迫ったときはここに隠れさせればよいだろう、と彼は思った。もっとも、そのような事態が訪れたらの話だが。
食料を抱え地上へと戻ってきたヴェルヌイユの目にまず飛び込んできたものは、寝癖のひどいブルーノがソファにぼんやりと腰掛けている姿だった。
「よく眠れたか?」
「“いいや、夏は苦手なんだ。何度も目が覚めちまって……ああ、ところでシャツの替えをもらえないかな? 着替えたいんだ、汗臭くてたまらない……”」
「フランス語で話してくれないか」
「シャツ、チェンジ」
「それは英語だろ」
食器や洗濯物が二人分になったからといって、必要最低限でしかない家事がヴェルヌイユの負担になることはなかった。しかし右肩と足以外は順調すぎるほど急速に回復しているブルーノとしては、多少なりとも彼の家事を手伝いたいという気持ちがあったようで、ここ数日間は部屋の掃除やシーツの取り換え、朝食の準備など自ら進んで動き回っていた。
「どうしたんだ?」
黄ばんだ台拭きで食卓を拭いていたブルーノは、なにやらヴェルヌイユが調理台の前で動きを止めていることに気づいた。
「蓋が開かない」
ヴェルヌイユは体の脇に瓶を挟み込み、どうにかしてこれを開けようと奮闘していた。
「貸して」
パカン、と空気が破裂するかのような音が台所に響いた。青年はヴェルヌイユの手からすばやく瓶を奪うやいなや、いとも容易く蓋を開けてしまった。
「ありがとう、助かった」
「どこか具合いでも悪い?」
「いいや、問題ないよ」
取っ組み合いの喧嘩でもやろうものなら自分が負けることに間違いはなかろう、とヴェルヌイユは思った。
彼はブルーノが開けてくれた瓶に入っていた数種類の豆を赤いパプリカで和え始めた。とうもろこしと茹でたマカロニも入っている。弟のニコラが酒のつまみによく作ってくれたレシピの一つだった。食卓を拭き終えたブルーノはといえば、コーヒーを入れる準備を始めていた。
「これは美味しいな」
「“アーモンド、使ってなさそうだったから、珈琲豆と混ぜてみたんだ”」
「アーモンド?」
「そう」
「いい発想だ」
一人で暮らしていた頃はそれこそ朝から晩まで時間を問わず安酒を煽っていたものだったが、ブルーノが家の中を動き回るようになってからは彼の視線がどうにも気になってしまい、朝から酒を飲むことも少なくなった。せめて朝の食事を終えるまでは素面でいることにしよう、とヴェルヌイユは思うようになったのだった。食後、三十分も経てばまた酒を飲み出してしまうとはいえ、これはちょっとした進歩である。
「このサラダもすごく美味しいよ」
「そりゃどうも」
「塩のドレッシングがいいね」
無言でコーヒーをすする自分を控えめに覗き見ているブルーノの視線に気づきながらも、ヴェルヌイユは極力青年と目を合わせぬよう努めていた。昨夜のことについて言及されやしないか、彼は内心ひやひやしていた。
「今日はどこかへ出掛ける?」
「外出の予定はないな」物事を深刻に受け止めすぎるきらいがあるヴェルヌイユは、青年からの問い掛けを半ばうわの空で聞いていた。「なにか欲しいものがあるのか?」
ブルーノはしばし考え込む素振りを見せたのち、左手首をぐるぐると回転させながら答えた。「“扇風機”」