それから数時間後、ヴェルヌイユは目が覚めた。思い出すのも恐ろしいほどの悪夢によって叩き起こされるのは、なにも今夜が初めてではなかった。彼は乱れた呼吸を整えるべく、枕元に置いてあったグラスに手を伸ばした。その内容の細部まで鮮明に思い出すことはできなかったが、彼の耳にはすべてを呑み込まんとする波音が残っていた。
「見てよ、ママ、ぼくとトマの二人で作ったんだ」
 ヴェルヌイユは父が言うところの“破廉恥な格好”でひたすら読書と日光浴を続けている母、ダニエルの元へ駆け寄った。妊娠中の母曰く、このだらしのない服装が一番体に負担画掛からないということだったので、父は仕方なく破廉恥さに目をつむったのだった。
「あらやだ、まさかずっと絵を描いていたの? あなた、ここは海なのよ。シュゾンや双子ちゃんだって泳いでいるんだから、あなたも行っていらっしゃい。お絵描きは家でもできるでしょう」
「だけど、まだ完成していないんだ。ここにイザベルがくれた花を貼って、それから新聞の切り抜きを……」
「フランソワ、普通の男の子はせっかく遊びにきた海岸で、わざわざ切り絵を作ったりはしないものよ。これはママが預かっておくから、向こうへ行ってみんなと遊んできて」
 母はフランソワが持ってきた未完成の“作品”を無造作に折りたたむと、藁で編まれた手提げの中へ仕舞ってしまった。彼女は野良犬でも追い払うかのような手つきでフランソワが自分の傍から離れるよう促し、ふたたびイギリスの推理小説の本文を目で追い始めた。
「泳ぐ時は大人が付き添っていないと駄目だって、パパが言っていたから……」
「だったら、パパたちのところへ行ってらっしゃい。見てごらんなさい、みんな楽しそうに遊んでいるわよ」
 父はといえば一緒に連れてきた患者の子供たちと海に入って遊んでおり、そのうち一人を肩車してやっているところだった。ヴェルヌイユは兄弟たちの姿を探した。兄のエドガーは両親の視界から外れたところで横になって読書をしていたし、社交的な妹のシュゾンは患者たちと一緒に父と遊んでいた。幼い双子の弟たちは二人で仲良く砂遊びをしているようだった。ヴェルヌイユは途方に暮れた。いけ好かないエドガーは彼が一緒に読書をしたいと言い出そうものなら「あっちへ行け、うすのろ」と口汚く罵ってくるであろうことに疑いの余地はなかったし、弟たちの土遊びに混ぜてもらうというのも惨めったらしい。自分の子供に接するのと同じように他人の子供にも接するという自分の優しさに完全に酔っている父に遊んでもらうという選択肢はそもそも存在しない。それに患者の子供たちのなかには知的障害を持った兄弟が二人ほど交ざっていたので、そこに入って遊ぶというのはヴェルヌイユにとって恐怖でしかなかった。結局、彼は母にもらったお金で購入したアイスクリームを舐めながら、海岸で知り合った見ず知らずの姉妹たちと夕方までの時間を過ごした。
「フランソワ、今日はいい気分転換になっただろう。新しい友達も大勢できたんじゃないか?」
 帰り道の車内でヴェルヌイユはご機嫌な父にこう尋ねられた。
 少年はぶっきらぼうに返した。「どうだかね」
 その言葉を耳にした父は車を急停止させた。父はおもむろに車を降りたかと思えば、後部座席に腰を落ち着けていたヴェルヌイユを車内から引きずり降ろしてしまった。ほかの同乗者たちはなすすべもなく、というよりはむしろ興味なさげに二人のやり取りを眺めていた。
「なにするの!」
 こんなところで降ろされてはたまらない。ヴェルヌイユは叫んだ。
「おれの車から降りろ! お前の荷物もだ、早くしろ!」
 降りろ、降りろ、と父は一貫して怒鳴り続けた。顔は茹でだこのように真っ赤だった。彼は病弱な次男の細い腕をいまにもへし折らんかのように引っつかみ、そこらじゅうに唾を撒き散らしながら吐き捨てた。彼は人前で声を荒げることが男の象徴であると勘違いしているのだった。「そんなに気に入らないことがあるのなら歩いて帰ってこい!」
「お願いだから、ねえ、乗せて……」
「黙れ、お前は歩いて帰ってくるんだ!」
「パパ、お願いだから」
 少年の願いが聞き届けられることはなかったし、誰一人として守ってくれる者はいなかった。彼は麦畑の広がる人通りのない道に一人放り出され、そこからは一本道の道路に沿って二キロほど歩き続けた。顔は涙でぐしゃぐしゃだった。幼い子供にしてみれば、その距離は永遠に辿り着くことのない終着地に向けて行進させられているかのような、遠く険しいものに感じられた。
 しかし、二キロほど歩いた先に車が止まっていた。運転席には不機嫌な顔をしたダニエルが座っており、助手席には父が座っていた。息子がようやく彼らの車が停止している場所に辿り着くと、ダニエルは苛々した様子でこう言った。「遅かったじゃないの。随分ともたついていたのね」
 テオドールは腕を組み、始終不機嫌そうに窓の外を眺めていた。彼は息子に対する労りの言葉の一つも発することはなかった。
「フランソワ、これをあなたに返さないと」
 パリ郊外の自宅に着くと、いつの間にやらすっかり機嫌を直していたダニエルが先ほどの一件などあたかも忘れてしまったかのように話しかけてきた。
 彼女の手には折れ線がくっきりと跡を残した一枚の紙が握られていた。「車の中で見せてもらったけれど、とても上手く出来ているじゃない。もしも必要だったら玄関に飾ってある花瓶から花びらを取って使ってもいいわ。これはわたしと赤ちゃんの絵よね?」
 彼女は息子の顔を朗らかに覗き込んだ。自宅に着いたのだから、もう彼らのご機嫌取りをする必要はない、とヴェルヌイユは思った。もしも家を追い出されるようなことになったら、イザベルかエミールを頼ろう。彼は手渡された紙をビリッと破いてしまった。
 次の瞬間、ダニエルは息子の頬を平手打ちした。渇いた音がただっ広い玄関に響き渡った。
「どういうつもりなの、その態度は!」
 わなわなと肩を震わせる母をよそに、ヴェルヌイユは手にした紙を容赦なく破いていった。この紙切れが彼にとって”作品”であったのは母が折れ線をつける前までのことだ。いまや正真正銘、これはただの紙切れに過ぎなかった。
 どんどん小さくなっていく紙切れを前にして、ダニエルはふたたび我が子に手を上げた。避けようと思えば避けることもできたが、ヴェルヌイユはあえて母の平手打ちを頬に受けた。彼の顔からはすっかり表情が消えていた。
「それが親に対する態度なの? ちょっと、何とか言いなさいよ!」
 ヴェルヌイユは何も答えなかった。彼は手のひらに残った紙切れの残骸を床に掃うと、一目散に階段を駆け上がっていった。こうして落ち込んでいるときは愛犬のトマに慰めてもらうのが一番だということを彼は知っていた。
「待ちなさい、フランソワ!」ダニエルの金切り声が階段の下から聞こえてきた。「今夜、夕食に下りてきてもあなたの分はないわよ……覚えておきなさい!」
「お前こそどういうつもりだ、あいつは繊細なんだぞ!」
 患者の子供たちの見送りを済ませたと思われる父の怒声が、トマを腕に抱いたヴェルヌイユの耳に入ってきた。また始まった、と彼は思った。両親の喧嘩はたいてい父の怒声から始まり、攻撃を受けた母が彼にもっともらしい非難を浴びせ返すのが常だった。母の無神経な態度が喧嘩の原因になることはあったが、彼女から夫に喧嘩を吹っ掛けることはまずない。父がその尊大な性格を改めれば、夫婦喧嘩の回数はぐっと減るだろうに、とヴェルヌイユはいつも考えていた。
「あなたこそ今日一日、あの子を放っておいてどういうつもりなの? だから患者の子供なんて連れていくべきじゃなかったのよ! 自分の息子の面倒も見ずに、他人の子供に付きっきり……父親失格だわ! あの子はあなたから海に入るなと言われて、ずっとそれを守っていたのよ。あなたが他所の子供と遊んでいるあいだ、彼は何をしていたと? 切り絵よ、動物のお友達と車のなかで切り絵をしていたの!」
「喚くんじゃない、この馬鹿たれが! 使用人に聞こえるだろうが!」