「ブルーノ、窓は開けたままでいい。今夜は暑くなりそうだし、こんな場所なんだ、空き巣や強盗に狙われる心配もない」
 月明かりと共に室内を淡く照らす蝋燭が、その揺らめきに誘われてやってきた夜蛾を小気味いい音で焼きつくした。ちょうどカーテンを閉めようとしていた虫嫌いのブルーノは黒焦げになった蛾に気付いて眉をしかめた。「わかった」
「不満げだな」
「バッタと一緒に寝ろって?」
「その抗議はおれじゃなくバッタに言ってくれ。どうしてもって言うのなら、窓を閉めようか?」
「いい、ここはあんたの家なんだ。窓は開けたままに」
 寝台のふちに腰掛けたヴェルヌイユは日本人女性の描かれた扇子で風をおこし、室内にこもった熱気から少しでも逃れんと悪足掻きを試みていた。枕元には寝付きを良くするためのウィスキーがちょうど一杯分、置かれている。
 傷口の腫れや微熱がある程度の回復を見せ、食事の件で揉め始めた前後から、二人はどちらからともなく一つの寝台を共有するようになっていた。尊大さと礼儀正しさとを同時に持ち合わせるブルーノが“家主を差し置いて寝台を占領するわけにはいかない”と、いやがるヴェルヌイユを布団に引きずり込んだことがきっかけであったようにも思われるが、理由はそれだけではなかった。強引に寝台に押し込まれたヴェルヌイユは出会って間もないドイツ人の横顔から闇夜に対する漠然とした恐怖を感じ取り、ああ、心細かったのだな、と一人納得したものだった。この標準的な大きさの寝台を大の男が二人で共有するのはいささか気が引けたが、慣れてみればどうということはなかった。幸い、ブルーノは寝相も良ければいびきもかかなかった。
「ずっとここにいるつもりか?」
 いまだ肩の傷をかばうような動作をしている青年の隣で、ヴェルヌイユは小汚い天井を見上げて静かに言った。「初めは自殺を図ったのだろうと思っていたんだ。だけどいまじゃ、お前は自ら死を選ぶような人間じゃないような気がしてきている。家族や恋人、友人……お前の帰りを待っている人がたくさんいるんじゃないのか?」
 そう尋ねれば、ヴェルヌイユと同じく扇子で暑さを凌いでいたブルーノは申し訳なさそうに目を泳がせたのち、「ギュンター、リーンハルト、ヴォルフラム、ジークフリート、クラウス……」と、ドイツ風の聞き慣れない名前を呟き始めた。意味は分からなかったが、その儀式めいた暗唱は耳に心地好かった。
 ヴェルヌイユとブルーノの関係は友人以上であり、それと同時に知人未満と表現することもできた。二人はこの三週間というもの、我々に与えられた二十四時間のうちの大半を共に過ごしていたが、境遇、生い立ち、家族構成、友人関係、職業などに関してはお互いに何一つ知り得ていなかった。彼はブルーノが発する心地の好い言葉に耳を傾けながらも、右隣で横になるドイツ人のほうに体の向きを変えた。
「リサ、フレデリック、フェルゼンシュタイン、アルマ、シュテファン……」
 ヴェルヌイユに背を向ける形で薄手の毛布に包まっていたブルーノは、心なしかひどく寂然として見えた。この蒸し暑さがなければ、ヴェルヌイユは目の前の男をそっと抱き締めていたかもしれなかった。次から次へと唱えられる独特な響きを持った名前の数々はヴェルヌイユの眠気を誘い、ブルーノがすべての名前を口にし終えるより早く、彼は眠りについてしまった。