照りつける日射しが遮られたことに気づく風もなくピアノの椅子に腰掛け、ただひたすら楽しげに指を動かし続けるイザベルの揺れる短髪に背後から手を触れんとヴェルヌイユは右手を伸ばした。結婚を機にばっさりと切ってしまった彼女の長く美しかった金髪はいまも変わることなく艶やかで柔らかく、また太陽にも似た温もりを持っておりヴェルヌイユのお気に入りだった。彼は風に揺れるしなやかな後ろ髪を見つめたまま、愛する女性の名を小さく呼んだ。
「イザベル、イザベル……」
「イザベル?」
訝しげに瞳を開けたヴェルヌイユの正面には、自分の顔を食い入るように見つめるブルーノの姿があった。青年のシャツの襟元をしっかりと握り締めていたことに気づいたヴェルヌイユはいまのこの状況が読み込めず、至近距離にあった男の細面に虚ろな目を向けた。
ここ一週間というものろくすっぽ顔を見せなかったブルーノは先週の錯乱状態からは想像もつかないほど落ち着いた、母親が幼い我が子を案ずる際に見せるような、あの悪意や偽りなど微塵も感じさせない純粋な優しさに満ちた表情でヴェルヌイユの顔を覗き込んでいた。
ヴェルヌイユはなかば夢心地で彼に語り掛けた。「おれはイザベルがいつかひょっこりと、何事も無かったかのように姿を見せてくれる気がしてならないんだ」
彼はシャツの襟を掴んでいた手をブルーノの首筋に移動させ、形の良い輪郭を確かめるかのように肌に触れた。同性のヴェルヌイユから見ても、この青年の整った顔立ちは純粋に美しいと思わざるを得なかった。
ブルーノはいささか困惑しながらも、呆れたような口振りで呟いた。「“誰だよ、イザベルって”」
肉体は重傷を負い、精神は錯乱状態にあった一時のブルーノからは想像もつかぬほどの穏やかな表情はヴェルヌイユに安堵を与えた。ひとまずは体調が回復したようでなによりだ、と彼はふたたび遠のきかけた意識のなかで思った。酒に溶かして飲んだ睡眠薬がまだ効いているらしく、ふわふわとした心地だった。
が、ブルーノはいまにも深い眠りに落ちそうになっていた飲んだくれの肩を激しく揺らした。
「おい、やめろ!」
せっかく心地好く眠りにつけそうだったところを邪魔され、ヴェルヌイユは苦しげに喘いだ。「いったい何の用だ、昼寝の邪魔をするな」
忌々しげに瞼を開けた彼の視線の先には予想外のものが映り込んできた。ブルーノは寝室の洋箪笥からひっぱり出してきたと思われる一枚のレコードを見せて言った。
「“これを聴きたいから、蓄音器を使わせてもらえないか”」
そのレコードに印刷された題名はヴェルヌイユの目を釘付けにした。《また恋に落ちたわ》と印字されたマレーネ・ディートリッヒの名盤はイザベルが愛して止まなかった映画音楽の一つである。
「このレコードを聴きたいのか?」
「“そう”」
青年の真率な眼差しは決して多くを語りはしなかったが、ヴェルヌイユの乱れた心を現実へと滑らかに引き戻した。
「……わかった、ついてこい」
彼は気だるげに体を起こすと、すたすたと勝手口に向かって歩いていった。ブルーノは怪我のせいで不自由になった足を引きずりながら家主のあとを追った。
廊下を突き当たった右手に位置する、不動産屋曰くかつてここに住んでいた無名の芸術家がアトリエとして使用していた一室には立派なピアノがぽつんと佇んでいた。しかし鍵盤のいくつかが壊れてしまっているので、使い物にはならない。部屋の隅にはヴェルヌイユがパリから持ってきた三つの木箱が取り残されたかのように置かれており、そのなかには思い出の楽譜やレコード、写真、ランプなどが無造作に詰め込まれていた。楽譜は捨てようと思いながらも捨てられず、この家へ持ち込んだものだった。ヴェルヌイユはそれらからふっと目を逸らした。彼の視線の先にあるものに気づいたブルーノはぶっきらぼうに問い掛けた。
「”あんた、ピアニスト?”」
「違う、これは前の住人が置いていったものだ」
ブルーノは小さく首を捻った。「”フランス語はわからない”」
「言葉が通じないっていうのに意思の疎通を図ろうとするなよ」
ヴェルヌイユは埃被った箱型のターンテーブルを床から拾い上げながら面倒くさそうに、しかしどこか愉快そうに言うのだった。「ほら、これを使え」