さて、結婚以前にまで話は遡るが、相手との距離を縮めるべく行動を取り始めたのは言わずもがなエドガーのようだった。イザベルも満更ではないらしく、ヴェルヌイユはヴァイオリンのレッスンがある度に二人の進展具合を逐一報告され、じれったい気持ちにさせられたものだった。それこそ小学生の頃から交友のある、九つも年の離れたイザベルを異性として意識したことは一度たりとなく、第一その必要性をヴェルヌイユは丸っきり感じていなかったので、愛だの結婚だのという話題を楽しげに持ち出されたところで曖昧な相槌を打つことしかできなかったし、そのうえ相手は兄のエドガーである。状況としても落ち着かなかった。
 彼らの交際が始まってから二カ月後、ヴェルヌイユは彼女がエドガーからの求婚を快諾したことを知った。
「何に乾杯しようか? エドガーとイザベルに?」
「いいや、それは駄目だ、悔しすぎるじゃないか」
 婚約の知らせを受けてから三日後、ヴェルヌイユは小学校以来の兄の親友であるエミールの誘いを受けて夜のモンマルトルへと繰り出した。画家たちの集うテアトル広場に面した、赤の軒先とチェックのテーブルクロスが印象的なラ・メール・カトリーヌはエミールが贔屓にしているカフェの一つだった。
「分かった、それじゃおれたちの友情に」
 永遠の友情に乾杯、と寂しく杯を掲げるエミールの姿はヴェルヌイユにとって実に意外なものだった。エミールといえば年齢にそぐわぬ落ち着きを持ち、いつだって物事を一歩離れた場所から冷静に眺めているような男だったので、こうしてあからさまに自分の感情をさらけ出すことはめったになかった。そもそもエミールとヴェルヌイユが一対一で酒を飲み交わしたことなど数えるほどしかなく、二人のあいだには常にイザベルもしくはエドガーがいた。よって、これはなにかあるな、と自宅を出るときからすでにヴェルヌイユは予想していた。そして、その予想はおおむね当たっていた。
「ムッシュー、注文を頼む」
 エミールはヴェルヌイユそっちのけで飲み物、料理の注文を淡々とギャルソンに伝え始めた。生ハムのカナッペ、チーズ、生牡蠣を八個、海老とアボカドのサラダ、アリコ風のがちょうのシチュー、子牛肉のオーロラ・ソース、ワインはピノ・ロワールのデキャンタ……ヴェルヌイユは少しばかり驚いていた。彼の知っているエミールの料理の注文方法といえば、まずは“なにが食べたい?”とエドガーに質問し、次に自分が注文する皿を決める。なので、ヴェルヌイユのなかでエミールは常に他人の要望を第一に重視する人物として位置づけられていた。エミールとはそれこそイザベルにも引けを取らない長い付き合いをしていると思っていたが、彼の知らない一面はまだまだ多くありそうだった。現にエミールは彼に一言の伺いもなく、次々に料理を注文していった。