「ブルーノだ」
「なにが?」
 覚束ない足取りで寝室へと姿を消してしまったブルーノがそれまで腰掛けていた椅子を見つめながら、ヴェルヌイユは彼の代理として少女の質問に答えた。「彼の名前はブルーノ」
 ふうん、とファニーは不愉快そうに鼻を鳴らした。金髪の碧眼という華やかな外貌に危うく騙されるところだったが、ブルーノとかいう男はいけ好かない。
「でもあたし、彼のことは好きになれそうにないわ。無愛想だし挙動がおかしくて、まるで聾唖者みたい。いまの様子だとあなたの友達ってわけでもなさそうだし、なにか事情があるのね?」
 彼女はヴェルヌイユのほうへ身を乗り出した。好奇心というよりも、むしろ対抗者の弱みを握ることが目的であるかのようにも思われた。「教えて、フランソワ、絶対に口外したりしないって約束するから」
「それならむしろ、こっちが教えて欲しいくらいだ」
「なんですって?」
「おれが知っているのは彼の名前だけで、それ以外は何も知らない。言葉がまるで通じないんだ」
 会話はそこで途切れた。ファニーはそれから四十分ほどヴェルヌイユの家に居座ったが、例の青年の様子が気になって仕方がないのか、異様に落ち着きのない家主の態度に苛立ちを覚えた少女は心底腹立たしげに腰を上げた。「あたし、もう帰るわ」
 それを聞いたヴェルヌイユは読み掛けの文学集をすかさず閉じ、「送っていこう」と席を立った。
 いまかいまかと待ち構えていたかのようなヴェルヌイユの態度は、浮き沈みの激しい気性を持つファニーの神経にさらなる刺激を与えてしまったようだった。こうした女性特有の気紛れさはヴェルヌイユにとっておよそ理解し難い性質の一つに含まれた。
「あたしなんかより、あなたは彼のほうが心配なんでしょう。そうでしょうとも、なんたって彼は怪我人なんだもの。早く様子を見てきたら?」
 捨て台詞を吐いて外へ出て行ってしまったファニーだったが、明日になればまた何事もなかったかのようにやってくるに決まっている。これまでもずっとそうであったし、おそらく今後も変わることはなかろう。したがってヴェルヌイユは、ひとまず寝室へと足を向けるのだった。彼がブルーノに対して抱く感情は極めて複雑なように見えて、だが実際のところ至極単純だった。
 言葉が通じないというのは、不便なように見えて案外気楽でもある。全身に受けた傷や一市民にしては些か鍛えられすぎた体つきから察するに、ブルーノが軍職に従事する身の上であったことに疑いの余地はなかったが、その体以上に深い傷を負っていると思われる彼の謎めいた過去を知るすべはない。ヴェルヌイユは気の毒そうな表情で相手の肩を抱き寄せたり、表面的な共感を口にしたりする必要がまったくないという状況に内心安堵していた。人の顔色を窺いながら行動することに疲れてしまったというのも、彼がこの土地へやってきた理由のひとつだった。以前までの彼を知る人間は誰ひとりとしていない。近所をちょっと散歩しているだけでも誰かから声を掛けられてしまうパリに比べれば、この土地での暮らしは遥かに気楽なものだった。