ブルーノは途端に顔色を青くし、椅子から立ち上がった。取り乱しながら、という表現は適当ではなかろう。それだけブルーノの怯え方は尋常ではなかった。彼がなにか漠然とした恐怖に襲われ、目を泳がせている様子はめったに心を乱さぬヴェルヌイユにさえ不安と混乱を沸き上らせた。ヴェルヌイユは唇をわなわなと震わせているブルーノにここで待っているよう合図を送ったのち、一人で外に出ていった。それから十秒後、もしもブルーノの耳に悪意なき少女とヴェルヌイユが挨拶を交わす声が聞こえてこなかったなら、青年はその悪夢のような圧迫感と胸の痛みに押し潰され、いまにも息絶えていたかもしれなかった。
「この人は誰なの、フランソワ」
 自宅に招き入れられたファニーは開口一番に尋ねた。
「彼のことは気にしなくていい」ヴェルヌイユはぴしゃりと答えた。「それよりもファニー、驚かさないでくれ。急に訪ねてくるなんて」
「そうは言っても、これまでだってずっと突然あなたのお宅を訪ねてきていたじゃない。いまさら驚くなんて思ってもみなかったわ。ところで彼、あなたのお友達? ぜひ紹介して欲しいわ」
 ヴェルヌイユは食卓に腰を落ち着けたまま始終俯いている青年に一瞥を投げた。まともに言葉を交したことすらないのだ、”友人”とは言い難い。しかしファニーは普段から口数の少ないヴェルヌイユの態度に何ら疑問を抱くこともなく、勝手に会話を進めていった。
「あたしは口が堅いから信用して大丈夫よ。ねえあなた、名前は? 見たところ、ドイツ人かオーストリア人じゃない? あたしはファニーっていうの、ファニー・デプレットよ」
 彼女の好奇心が大いに刺激されたのは致し方ないことだった。パリからやってきた知的な青年、単にそれだけの理由でヴェルヌイユという男に近付かんと試みた経歴を持つファニーにとって、目の前にいる美しい青年ほど魅力的な人物はほかになかった。が、当のブルーノはといえば先ほどの錯乱状態をいまだ引きずっているのか、明らかに挙動がおかしかった。彼の青い瞳には恐怖の色がにじんでいた。見かねたヴェルヌイユは彼の肩をそっと叩き、廊下の先にある寝室を顎で示すのだった。