ヴェルヌイユに助けられた件の青年はそれから丸一日、死んだように眠り続けた。
 次の日の夕方、肘掛け椅子に頬杖をついたまま眠りこけていたヴェルヌイユは地震のような揺れを感じ、反射的に立ち上がった。動きの鈍くなった頭で、彼は自分の足元に倒れている青年をじっと見つめた。ああ、とヴェルヌイユは目の前の現実に意識を戻した。寝台から抜け出そうとしたのだろうが、あれだけの重傷を負っていたのだ、先走ろうとする心に対し、肉体がありったけの悲鳴を上げ抵抗したに違いない。ヴェルヌイユは埃っぽい床にうつ伏せで転がっている重傷人を抱え起こさんと、気だるげに腰を屈めた。が、肩に触れようと手を伸ばした途端、青年はなにやら警戒心を剥き出しにした乱暴な口調で叫んだ。
Berühren Sie mich nicht !
 ヴェルヌイユは眉をしかめた。せっかくの手助けを青年が拒否せんとしていることだけは理解できたが、生まれてこの方母国語と英語以外の言葉にはついぞ触れてこなかったヴェルヌイユは、ミュンヘンへの留学経験を持つエドガーと違い、ドイツ語の知識などまるっきり持ち合わせていない。それどころか興味を抱いたことすらなかった。
 弱々しい呼吸を繰り返しながらも、はっきりとした敵意をもって自分を睨み付けている青年を半ば強引に抱き起こすと、ヴェルヌイユは彼をふたたび寝台へ横たわらせた。相手を射殺すかのような鋭い瞳を持った青年は、懐疑的な眼差しでこちらをじっと睨みつけていた。余計なことをするなとでも言いたげな青年に、ヴェルヌイユは特に表情を変化させることもなく言い放った。「あいにくだが、おれは自分の母国語以外、聞く耳を持たないことにしているんだ」
 おれに文句を言いたければフランス語を勉強してから出直してこい、とヴェルヌイユは付け加えた。まがりなりにもここはフランスであって、ドイツではない。生真面目そうなドイツ人が彼の発した言葉の意味を理解しているかはおおよそ不明だったが、ヴェルヌイユに促されるまま黙って毛布を頭から被っているところを見ると、台詞の端々から伝わってくる言葉の意図は察したようだった。その重患としてあるべき姿に満足したヴェルヌイユはいったん台所へ戻り、午前のうちに作っておいたジャガイモのスープと茹でた夏野菜をプレートに乗せて持ってきた。当初は自家栽培の野菜をふんだんに使用したボルシチを作るつもりだったが、予期せぬ客人の体調を考え、急遽献立を変更したのだった。生クリームの代用としてヤギの乳を使いはしたが、以前見習いシェフの弟に教えてもらった調理法なので、味は悪くないはずだった。