『フィガロの結婚』という作品そのものは、喜劇『セビリアの理髪師』、喜劇『フィガロの結婚』、正劇『罪の母』からなる、ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェによる三部作戯曲の二つ目にあたる。
ロレンツォ・ダ・ポンテの台本によるモーツァルトの有名オペラ『フィガロの結婚』は1786年5月1日、ウィーンのブルク劇場で初演。この5月中には全部で4公演が行われ、7月から12月のあいだには5公演が行われた。計9回で打ち切られてしまった公演だったが、当時の標準ではそれほど少ない回数でもなかった。モーツァルトの父レオポルトが長女ナンネルに宛てた手紙によると、第二回目では3曲、第三回目の公演では7曲がアンコールされた。それでも興行的には成功とは言えなかったが、翌年1787年の1月、モーツァルトは妻のコンスタンツェや友人たちを連れてプラハに一ヵ月ほど滞在。1月11日にプラハに到着したモーツァルトは、プラハの人々に拍手をもって迎えられた。彼は一ヵ月というプラハ滞在中に1000フロリンを稼いだ。(※フロリン=グルデンは現在の日本円で一万円に相当)
ちなみにモーツァルトの友人であったエマニュエル・シカネーダーが、同じくボーマルシェの『フィガロの結婚』を1785年2月4日、ブルク劇場で上演するはずだった。しかし台本検閲をパスしているにも関わらず、公演当日、ヨーゼフ二世から直々に上演禁止を食らってしまった。モーツァルトがダ・ポンテに台本依頼をしたのはそれから数日後のこと。