Hieronymus Joseph Franz de Paula Graf Colloredo von Wallsee und Melz (31 May 1732 in Vienna, Austria – 20 May 1812 in Vienna)
18年間在位したザルツブルク大司教ジークムント・クリストフ・シュラテンバッハ伯爵の後任として、1772年3月14日にヒエロニュムス・ヨゼフ・フランツ・デ・パウラ・コロレド伯爵が大司教に選ばれる。後任の選出には5日間が費やされ、その間13回の投票が繰り返された。選挙人はコロレドを含めて23 人。彼は22票を獲得して、要するに満場一致の票決で、大司教に選出された。しかしコロレドはウィーンの帝国副宰相の次男だったため、ウィーン宮廷が最終投票の前に選挙人に圧力をかけ、半ば強制的にコロレドを選ばせた。
地元で人気のある候補者が後任になるとばかり思っていたザルツブルクの人々は失望する。4月29日に行われたコロレド着任の祝典の音楽は、オペラ作曲家として名声を得ていたモーツァルトが担当。
コロレドは啓蒙思想の信奉者で、着任してからはザルツブルクの全面改革に着手。主に学校制度の改正、出版検閲の緩和、宗教的寛容令など。有望な人材をドイツのハンザ同盟の諸都市のみならず、パリやローマへ留学させたりもした。新聞なども複数生み出され、『上ドイツ国家新聞』『インテリゲンツ』『医学外科学新聞』『文学新聞』『登山愛好家の自由時間』などがある。コロレドの諸改革はザルツブルクの文化生活を活性化、啓蒙的知識人からは大いに歓迎された。しかし教会でのミサを短縮、大学劇場を閉鎖したことによって、宮廷楽団の活動範囲は狭められてしまった。のちに教区教会における器楽の演奏が禁止、典礼ではラテン語聖歌に変わってドイツ語聖歌の使用が義務づけられた。1775年、コロレドはハンニバル広場(現マカルト広場)(※モーツァルト一家はこの近くに住んでいた)にあった舞踏会場を改築して宮廷劇場を造り、1778年に大学劇場のほうは閉鎖してしまった。
宮廷劇場での公演は旅回りの劇団に任されることが多く、1780年から1781年の春先ごろはシカネーダーの一座も公演を行った。1780年で切れる契約だったが、コロレドはシカネーダーの2ヶ月の延長願いを聞き入れ、そして『ベルナウアリン』という演目がヒットする。この舞台に出てくる60名の兵隊の甲冑に関しては、コロレドが城の武器庫のものを持ち出す許可を与えた。彼自身もたびたび劇場に足を運んでいた。
宮廷劇場を新築するにあたって、コロレドは自身の居城にあった旧宮廷劇場を閉鎖。前任者シュラテンバッハはモーツァルト親子だけでなく、ザルツブルク市民にもその放蕩ぶりが慕われていたが、ザルツブルク経済を落ち込ませていた。後任者のコロレドは倹約に努めざるを得なかった。
コロレドは着任後、それまで無給だったモーツァルトを1772年8月21日付けで有給の宮廷楽師長(オーケストラ全体を指揮する首席奏者で、彼の場合は主席ヴァイオリン奏者)に昇格させ、以後5年間はこの地位だった。モーツァルトは当初その地位に答えるようにして、1775年ごろまでは交響曲や教会音楽を量産したが、彼はコロレドに対し、徐々に不満を募らせていく。あるモーツァルト学者は、「本来父レオポルトに向けられていたかもしれない反抗心が、コロレドに向けられていた」。
コロレドは上記の諸改革でモーツァルトの活動を狭めた上、極端なイタリア人贔屓だった。彼はイタリア人音楽家を次々と宮廷に招き、高額な年俸を与えた。レオポルトの楽長昇進の願いを聞き入れず、代わりにドメニコ・フィスキエッティ、ジャコモ・ルストといった音楽家を楽長に据えた。フィスキエッティは年俸 800フロリン、ルストは1000フロリン(一部のイタリア人には住居手当として年額60~80フロリンも与えられていた)、それに比べてモーツァルトは 150フロリン、1779年には450フロリン。父レオポルトは354フロリン。しかしモーツァルトは家族と暮らしている上に、妻子もいない。父子合わせての年俸合計は450フロリンであり、十分に生活していける金額ではあった。レオポルトが昇進できなかった件に関しても、レオポルトがそれ相応の活動を見せず、毎年親子で旅に出ては、なにかと理由をつけて帰郷を引き延ばしていたからである。モーツァルト親子が2回目のウィーン旅行に行った際は3年半も戻ってこなかったので、温厚だった前任シュラテンバッハが給与を差し止めたほどだった。
コロレドはヴァイオリンを好み、時に宮廷楽団にまざって一緒に演奏をすることもあり、音楽に対して無知というわけではなかったが、イタリア人を妄信しすぎて、無能な音楽家を雇ってしまうこともあった。彼は地元音楽家の育成に力を入れ、モーツァルト親子を高く評価していたシュラテンバッハとは正反対だった。コロレドはモーツァルトの音楽を評価しないばかりか、時に批判的な意見を述べたりもした。