ザルツブルクにおける宮廷音楽家の第一の職務は、教会音楽の演奏。町の教会、とりわけ大聖堂の典礼で演奏することが最も重要な仕事だった。モーツァルトはそれに加えて、典礼のための作曲、ミサや教会ソナタなど。
二つ目は大司教宮殿(レジデンツ)で定期的に催される宮廷音楽会や大司教の食卓での奏楽、その他宮廷の催しでの演奏。モーツァルトの作品のうち、宮廷用に作曲されたことが裏付けられるものはほとんどないが、宮廷では主に交響曲、協奏曲、ディヴェルティメント(喜遊曲)、舞曲、室内音楽、アリアといった曲種が演奏されていた。しかし1773~1777年までのあいだにモーツァルトが作曲した管楽ディヴェルティメントの多くは大司教の食卓音楽(ターフェルムジーク)、5曲のヴァイオリン協奏曲とコンチェルトーネは、おそらく宮廷楽長モーツァルトがみずからソロを弾き、大司教に披露するために作曲されたもの。
モーツァルトは1777年8月に宮廷楽団の辞職願いを提出。同年9月23日からは母と二人でマンハイムへ。その後はパリ、ミュンヘンなどを経て1779年(23歳)の1月半ばにザルツブルクへ帰郷し、レオポルトの説得により1月17日付けで復職願いを提出する。25日付けで宮廷オルガン奏者となり、年俸は 450フロリン。以後1年11ヶ月をザルツブルクで過ごし、シカネーダーとはその間に友人となった。